●五里霧中で3冊●『水準器』『死の淵より』『予告された殺人の記録』

2008年10月13日 00:05:01

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ラストシーンが書けなくなって、数日が経った。
物語ははっきりとしている。そこに疑義を挟む余地はない。
物語だけならすぐに書ける。
けれども、そうじゃない。
登場人物の命を書くのが「書く」ということ。
彼らの命を食べつくし、彼らと共に生死を共に。

たくさんの脚本を書いてきた。
これまでに書いてきた方法論を全て捨ててしまった。
これまでに培った技術を全く頼りにしない心持。
きれいさっぱり。

こんなに楽になるものか。
なにもできない、なにもわかっていない自分を発見した。
20年も脚本を書いてきて、ようやくわかった。
何にも書けていなかったこと。

さて、一からよいしょと考え直し、感じ直し、
五里霧中の手探り青春時代。

見えているラストシーン。
彼らの命が巨大すぎて、喰らい尽くせない。
彼ら一人ひとりを真夜中に呟き、そのあまりの葛藤に気が狂いそうになる。

真夜中に自分の正気を疑う。

『水準器』著/シェイマス ヒーニー _訳/村田辰夫・他


『苦しみの世にあってどう精神の釣り合いをとって生きてゆくか、
またどう精神的レヴェルを高く保つかを象徴的に示している。』

何度も開いてきた一冊。
どうしても読みたくなる時がある。
今、

こんな精神の時に読んだら、一体何を感じるだろう、と手にした。
高硬度の水のような鋭い滑らかさ。
言葉の力を信じようと思う。
人間の精神の高さを信じようと思う。生まれてから死ぬまで発し続ける
抗議の高さを信じようと思う。

そんなことを思う。

そうか、それを信じている作者なのか。
それを書ける作者なのか。
ノーベル賞を受賞したのは、その人間への無条件な信用の高さ故なのかもしれない。

言葉の発生とその高さ。
昔なら、これらの言葉や精神に強く影響されただろう。
自分の書くもののあちこちに影響されただろう。
今は、

まったくへっちゃら。
他人の書く言葉に揺れることはない。
今、書いている『スーザンナ・マルガレータ・ブラント』が

誰か、見ず知らずの他人の言葉なんかに影響されることなんかない。
そんな脚本。

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『死の淵より』高見順


「つめたい煉瓦の上に 蔦がのびる
夜の底に 時間が重くつもり 死者の爪がのびる」

この本も、自分を試すために取り出し読んだ。
そう、自分を試すために。
自分の41歳青春時代。さっぱりさばさば青春時代。
目の前に広がりすぎた脚本を書くということの高さ。
次の一歩が楽しみな青春時代。
次の一歩、どこにでも歩ける。どこにでも向かえる。

そんな、これまでにない乾燥気味の心で読んだ。

言葉が芸術に昇華していく過程を見ることができる。
美しい。

完全に時間が塗りこめられている。
時間が止まる。
死の病床で書かれたこれらの言葉。
時間を止めようと、その祈りとその反逆。

時間に逆らい続ける言葉。
時間に反逆し続ける作者。

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『予告された殺人の記録』著/G. ガルシア=マルケス_訳/野谷文昭


「町をあげての婚礼騒ぎの翌朝、充分すぎる犯行予告にもかかわらず、
なぜ彼は滅多切りにされねばならなかったのか?
閉鎖的な田舎町でほぼ三十年前に起きた幻想とも見紛う殺人事件。
凝縮されたその時空間に、差別や妬み、
憎悪といった民衆感情、崩壊寸前の共同体のメカニズムを複眼的に捉えつつ、
モザイクの如く入り組んだ過去の重層を、哀しみと滑稽、郷愁をこめて録す、熟成の中篇」

これも同じように挑戦的読書。大好きな一冊。

写真は16歳のときに購入した所有の本。
現在は、カバーも変わり、文庫でも発売されている。

こんな本を読んできた。
ここ数日、こんな本を読んでいた。

読書が愛おしい。言葉が愛おしい。
言葉の全てが愛らしい。言葉全てを抱きしめたいと思った。
言葉があることの人間全てを愛おしいと思った。

読書に理由なんか無い。読書に有益も意味づけもない。

ただ、読書が愛おしい。

今日も真夜中、稽古を終えて一人。
正座をしている足がしびれてきた。
超能力でプレイヤのディスクを入れ替えようとしている。
『LEON』から『ニキータ』に。

2m先にあるDVDプレイヤを睨み付け、超能力を発する。