『木下尚江集』【近代日本思想大系10】編集・解説/武田清子

2008年12月28日 02:19:40

写真

ベッドにひっくり返り、本を読んでいた。
重たい本をなかなか上手に片手で読んでいた。
うとうとしたり、(こら!起きろ!)と頑張ったりして、本を読んだ。

そうだ。盆栽をやろう、と思った。
今日は朝から盆栽を見に行こうと思っていたんだ。
昔から盆栽に惹かれていた。
実がついたり、花がついたり、ベランダでできる観葉植物はたくさん手がけてきた。
年齢なのか、どうにかした心境の変化か、どうしても盆栽だ。
あの小さな悠久に同化したい。

自分が小さくなる夢をよく見る。
その状況は様々だけれども、いろんなところで小さくなっている。
小さくなるなら、あの盆栽の松や楓や紅葉の下に行ってみたい。

本を読み終えて、疲れた腕に知らん顔して、(読んだな)と思った。
今年は、たくさん読んだな。
たくさん、と素直に思う。たくさんも、ちょっとも比較語。
ぼくのたくさんが、ちょっとだと言う人もいるだろう。
いつか、ぼく自身も、今年のたくさんを、ちょっと、と言う日があるのかもしれない。
けれども、今はやっぱり(たくさん読んだな)と実感している。
ベッドの中で、今日のこの一冊が今年の何冊目なのかを思い出そうとしたけれども、
無理だった。

部屋の模様替えをしようかなと思った。

そう思ったのと同時に、永遠の命が、永遠の若さが、欲しいと、思った。
不意に思った。これまでそんなこと思ったこともないのに、そう思った。
そんな思考は否定し続けてきたはずなのに、不意に思った。
なんでだろ。
まるで、ファウストじゃないか・・・

盆栽への志向も、本を読み続けることも、同じかもしれないな。

否定されたいんだ。
ぼく自身の何もかもを否定されたいんだ。
全てを否定され、全てを壊され、全てを叱責され、

確かにそう。
外部からの否定と、外部力による完全な破壊。その快楽とその後にあるだろう原動力に嫉妬する。
今、この思想の志向の思考の嗜好の
例えば、演劇の劇作の
そして、この耳のこの目のこの鼻の感受性能
そんな全てを否定されたら、どうなるかな、と考える。

這い上がる、とか、
立ち上がる、とか、
零からの出発、とか、いろんな言い方があるだろう。

否定のための告白
告白こそが否定への道程

一つの告白が、自ら止揚されていくその高さ。

夕方帰宅して、原稿用紙に、悪、と書き続けた。

『木下尚江集』【近代日本思想大系10】
編集・解説/武田清子

読書プロジェクト・コード名「鈴木邦男」。
その最後の段階にいる。
昨年の9月にスタートしたプロジェクト。
そう、見沢さんの三回忌追悼公演が終わってからだ。
スタート時点の予定は、2008年いっぱいで完了。でも、無理だった。

「戦後日本思想大系」はすんなり読めた。いいペースで読めた。
「現代日本思想大系」は、ちょっと手間取った。
最後の段階「近代日本思想大系」。時間がかかっている。一冊に時間がかかる。
前2つの大系よりも、文量も多い。「戦後」も「現代」も平均420ページくらい。
でも、「近代」は100ページも多い。530ページくらいのものが多い。重い。

今日、読み終えたのは、木下尚江。
「戦後」にも「現代」にももちろん登場してくる。
その仕上げとして、編まれている。

鈴木さんのご教授がなければ、手にとりもしなかった本だろう。

木下尚江。思想的には左側に配されるのだろうけれども、
右とか左に単純に振り分けてよい思想ではまったくない。
右も左もない。右を見続けること一周してすなわち左への凝視であり、
左を向き続けること一周して右への瞠目だ。
そんな当たり前のことを、当たり前に書いている。当たり前に発言している。

けれども、木下翁、発表当時はやっぱりやばかったんじゃないかな。
こんなにはっきりと政治形態を政策を日本の多数志向に対してノンを発し続け、
正誤の別を論理的に描き出している。
為政者にしてみれば、これはやだ。

正義の在り処が違うのだから、為政者と木下翁の思想が一致する事はない。

為政者は国家という視点から人間を見、
木下翁は、人間という視点から、国家を見

どちらにもその思想性に正義がある。
だから、相容れない思想だ、と、ここでまとめていいのかな、と思う。
そんなことは、木下翁もわかっていたはずだ。
分かっていながら、書き続け、発信し続け、叫び続けた。誰か一人でも、と。
木下翁の望んだのは、やっぱり理解者だ。
強い言葉の数々に示現してくる、彼の寂しさ。わびしさ。
一人の、100人の真の理解者がいれば、日本は変わっていたはずだ。

木下尚江。それを希望しながら、それをはなから諦めていた、気がする。
100年後を見ていたのかもしれない。1000年先を見ていたのかもしれない。

寂しさとわびしさ。
それが木下思想の本体だ。

木下尚江のわびしさを燃料に、今日は劇団再生の稽古。
まったくの途中経過に過ぎないのに、「今年最後」とくくられる稽古。
だから、年末は嫌いなんだ。
なにもかもが清算されようとする。年末年末年末。
一年というくくりを取っ払えばいい。
一ヶ月という言葉を失くせばいい。
一日という単位を失くせばいい。
何が年末だ。最後だ。
最後の稽古、その言葉だけで何かが決算されようとする。
年末という言葉は、人間の甘えの最たる権化だ。年末という概念が嫌いだ。

そして、忘年会。
劇団員とお世話になったスタッフ、そして、鈴木邦男さん。
スタッフの顔を見て、心から感謝している自分を発見。
年末に唾をはきかけ、体調に知らん顔して、嬉しいことを思う。

時間が連続するものならば、
13月、20月、1123月と続けばいい。
或いは、どこかの起源を一日と定めて、永遠と何日とカウントし続ければいい。
それば無理ならば、毎年年末をずらせばいい。
来年は、8月を年末にすればいい。真夏の年末。
年末というイベントを失いたくないのであれば、今の年末以外にいくらでも方法はある。

まったく年末。

真夜中、帰宅して、原稿用紙に罪と書き続けていたら、インクがなくなった。


飢渇〈評論〉
懺悔
法然と親鸞
野人語〈第一〉
神・人間・自由

「木下尚江先生」神崎清

「解説」武田清子

年譜
参考文献