●1528●『ロシヤ革命史話』『「吾輩は猫である」殺人事件』『生命の実相(第2巻)』『荘子』『囚人狂時代』
2009年1月17日 23:13:16
稽古。
テキスト稽古をしている。
ぼくが以前書いた脚本をテキストに目的をもって稽古をしている。
市川未来が主導し、稽古場で稽古。
公演のための稽古期間以外は、こうしてテキストの稽古をする。
一年間休まずに稽古をしてきた。
そして、あと2週間もすれば、公演の為の稽古が始まる。
公演のための脚本を使用して、上演のための稽古が始まる。
脚本。
それを書いている。これまでに経験のない期間で脚本を書いている。
12月に一本の公演を終えて、2月から次の公演の稽古。
中二ヶ月。実際は、一ヶ月くらいだろう。
経験のない時間だ。
一ヶ月で脚本一本書けるのか。
とはいえ、書いている。
時間がないとはいえ、書かなければいけない。
時間がないから、は、書けない理由にも、脚本の出来不出来の理由にはならない。
だからと言って読書の時間を削ることはできない。
何故といって、そりゃできない相談だ。
結局、眠る時間を削ることになる。
書く時間を真夜中、いつもより長く取っている。
今日、稽古場であべあゆみに原稿を渡した。
明日には、きちんと入力されて戻ってくるだろう。
校正読みをしながら、これまでとまったく違う手法に、それを自身受け入れがたく、
けれども、これが今の自分なんだな、と思う。
うまい下手は関係ない。
書きたい事を素直に書いている。
書きたい画をそのまま書いている。
破綻している、と言われるだろうか。
これは脚本じゃないと言われるだろうか。
これまでに培ってきたいくつかの技法や技術を踏襲すれば、
多分、簡単に書けた。それは間違いない。
テーマやモチーフ、そして物語ははっきりしている。
だから、これまでの方法をなぞれば、なんの苦労もなく、書けた。
あと2週間でも、一から書ききる自信はある。
でも、そうはできなかった。
これまでと同じ方法に建設的な心的上昇を見ることができなかった。
新しいことをしようとは全く思わない。
ただ、書きたい事を正確に書きたいと思う。
これまでと同じ手法の方が、観客が安心してみることができるのもわかっている。
にも関わらず、そうは、できなかった。
原稿用紙に書かれていく言葉の数々。
それを読み直し、「これが俺か」と受け入れがたい自己を発見し続けている。
結局、読むか、書くか、死ぬかしかないじゃないか。
読む。本を読む。
一ヶ月に1万ページ。年間、12万ページ。と、ノルマを決めた。
命がけでそれをクリアするだろう。何かを犠牲にしてもそれをクリアするだろう。
書く。脚本もそう。
書いている。誰かに何を言われても、自分が書きたいものを書いている。
誰かが愛想を尽かしても仕方ない。こうしかできない。こうしか書けない。
そして、死ぬのか。ただそれだけだ。
読んで、書いて。そして、死んで。
あと2週間でどれだけの言葉を書けるか。前回同様、ラストシーンは無理だろう。
正確にキャスティングを決めたわけではないし、明日はないし。
(明日を証明する一つの方法を思いついているけれども考え付くすには時間が足らなすぎる)
明日はない。そして、その明日がない今日に月。
真夜中夜中。月の裏側を見ることが出来るのもこんな言葉だらけの真夜中だ。