●764●『定本 言語にとって美とはなにか〈1〉〈2〉』
2009年5月16日 02:09:39
一本の演劇を観た。
椎野礼仁さんと高橋あづささんと駅から劇場まで歩いた。
その演劇は、「常に」形而下に在り、その存在の悲しさが書かれたものだった。
「形而下の悲しさ」と観ながら手帳にメモをした。
そういえば、ぼくは全ての作品に共通の登場人物を書いてきたな、と客席で考えた。
ベルンハルト、ヴェルギリウス、ベアトリーチェだ。
どの作品にもこの三役は、書いてきた。
そして、どんな芝居を観るときにも、その三役がいるかな、と思って観る。
そして、ぼくは、現実の恋愛を一度も書いたことがない。
「愛」と万年筆で書くことが恥ずかしいんだ。気恥ずかしい。
そんなことを思いながら、目の前で繰り広げられる「形而下の悲しさ」を観た。
終演後、レーニンさんと高橋さんと駅前の居酒屋で談論。
当然、今見た演劇の感想に話はおよび、
「観客の目の正しさ」をあらためて知った。そして、それを恐怖した。
自分に還元するためにとったメモを今、こうして見返してみる。
メモの行間に「思い上がるなよ、高木」と誰かが書いていた。
ぼくの隣にはいつも言葉があった。
だから、恋愛を書こうと思うことがなかった。恥ずかしい、というのはよそ行きの言葉だ。
ぼくの隣にはいつも言葉があった。
だから、いつも何もかもを捨てようとしている。
一本の演劇を観た。
レーニンさんの観たそれと高橋さんが観たそれと、ぼくが観たそれは同じようで、違う。
客席が並んでいたとはいえ、舞台に向かう目線の角度は、
例えば舞台センタを基準点とすれば、それぞれ7°から8°ほどの差異があった。
その差異だけで、同じ舞台を観た、とは言えない。
言えないけれども、同じ演劇を観ていた。
演劇は、正確に同時に同じものを表現することは不可能な芸術なんだ。
ならば、と、考える。見せる演劇から隠す演劇に。
ぼくのそばにはいつも言葉があった。
形而上に駆け上がる翼を持ちたいと、言葉があった。
体の奥の奥の熱がひかない。嫌な音のする機械が埋め込んだ熱だ。
2時間近い演劇時間の中で「形而下の悲しさ」が昇華する場所は何処か。
それが、興味の向かう対象だった。
直線的な伏線は劇作家の思考方法をあからさまに提示している。
伏線と伏線の距離は劇作家の好みを見せ付ける。
ステレオタイプな助詞の使用法は、劇作家の教養の高さを覗わせる。
居酒屋でのレーニンさんと高橋さんの言葉が思い起こされる、真夜中。
レーニンさんは今頃事務所の寝袋に包まれているだろう。
高橋さんは、呑み足らずに追加の燃料をあおっているか。
「形而下の悲しさ」の中で同時に経験することが不可能なシステムの中で、
ぼくが手をつなぐのはいつも言葉だった。
何ものにもよらない新たな思想を創り上げることの不可能性に絶望し、
ベアトリーチェに目を奪われ、ヴェルギリウスに心を奪われ、ベルンハルトに頭を垂れる。
ぼくのそばにはいつも言葉だけがある。
『定本 言語にとって美とはなにか〈1〉』吉本隆明
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