●1498●『ロシア革命史』

2009年6月25日 23:22:57



次の舞台のことばかり考えている。
そして、恐怖の月末だ。時間という時間がこぼれていく。
指と指の隙間から、だらだらとこぼれていく。どんなにしっかりとぎゅってしても、
時間が。

脚本は仕上がってはいない。脚本が仕上がらないまま、本番を迎える、
というのもまた一つの手ではないか。と、とても発展建設的な思考を得ている。
脚本を書かない劇作家がいてもいいじゃないか。
こんなに言葉を嫌悪し、言葉を唾棄し、言葉に背信しているのだから。
言葉を信じ、言葉に愛情を感じる者が脚本を書くべきだ、と、
前向きな思考が発展する。
それはそうだろう。好きなものを使ってやったほうがいいに決まっている。
使いやすい得物を手にしたほうが敵を倒しやすいってもんだ。

ぼくは、言葉を嫌悪し、言葉に向けて、ぼくの嫌な目を向ける。
美がぼくの後ろを着いてくる。

バイロイトのフルトヴェングラー
星だ。

言葉は、本当に伝達の手段なのだろうか。
ぼくたち全員が騙されているのではないか。
言葉は、誰かに何かを伝えるための手段や道具ではなく、もっと別の使い道があるのではないか。
その、別の使い道こそが言葉本来のありかたではないのか。
と、最近良く思う。みんな思ってることだろう。
昔から、思われてきたことだろう。
それにしても、言葉が伝達や表現という手段を逸脱しない。
そう考えると、やっぱり言葉は、何かを伝えたり、何かを表現したりするためのものなのだろうか。

どうも違う気がする。

何がどう違うのかと問われれば、形而上での解を語ることもできるだろう。

んー、どうも違う気がする。
言葉は、もっと自在に自律し、もっと変幻し、もっと飛翔し、もっところころし、
誰かに何かを伝えたり、何かを書いたりしゃべったり、なんて下世話なことに使われるものではない。
いやいや、今より、もっと下世話な利用法こそが言葉かもしれない。

なんにせよ、言葉に質量を感じ、言葉に物体性を見るようになってから、
言葉を形而下にも形而上にもおくことは少なくなった。
一つ一つの言葉にいろんな形があり、

頭の中がうるさいことこの上ない。乱雑にも程がある。
脚本を書いたり、原稿を書いたりしていると、言葉の一つ一つが

合体ロボのパーツのように、きらきらぴかぴかがしゃんがしゃん。
このやろう、静かにしやがれ、おい、動くな、じっとしてろ、おいそこ、お前だよ、うるさい、
動くな、ストーップ、待った待った、そっちに行くな、勝手に転がるな、
そこに止まるな、お前はこっちだ、おい、あいつはどこいった、逃げるな、探せ探せ、
寝込むんじゃない、仮病をつかうな、愛想笑いもやめろ、おい、すとーっぷ、どこにいく、
待った、わかった、話を聞こう、要求はなんだ、おい、誰か代表してしゃべれ、
うるせー、全員でわめくな、もー、泣くなよ、わかったわかった、

『ロシア革命史〈3〉』トロツキー

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