●1449●『内村鑑三集』【近代日本思想大系6】『世界教養全集18』『世界教養全集21』

2009年7月2日 22:50:10

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稽古を終えて帰宅した。いつもの時間。
『名探偵コナン 戦慄の楽譜(フルスコア)』をDVDプレイヤにいれた。
稽古場で、あべあゆみに脚本の続きの原稿を渡した。
入力されて戻ってくるまで、しばしのコナン。
入力されて戻ってきて、それに手を入れて、続きを書く。
その仕事は明日の昼からになるか。
窓を開け、部屋の空気を入れ替え、コーヒーを淹れた。

それにしても、いま取り組んでいる舞台の全てがありありと眼前に見えている。
荒唐無稽奇想天外落書無用のイメージ。
それを、実際の人間の肉体と限られた物質、そして逆らうことのできない重力の中で、
どう創る事ができるか。
ぼくたちは、重力から自由にならなければならない。
物質の属性から自由にならなければならない。
飛ぶことができない、というカビの生えた概念から解き放たれなければならない。
劇団再生の舞台は、人間が宙に浮くことができるし、
天地左右という法則から放たれ、自由な三次元を自由にする。

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『内村鑑三集』【近代日本思想大系6】

(502)

『世界教養全集18』

(462)

『世界教養全集21』

(485)

並行して読み進めていた全集を一気に読み終えた。
内村鑑三の「余はいかにして〜」は、何度も読んだ。5回目くらいか。
「後世への最大遺物」もそう。何度も読んだ。
一度読んだんだから読み飛ばせばいい、とも思うけれども、
全集を読破する、という目標のもと、そんなわけにはいかない。
あらためて読めば、新しい発見もあるってもんだ。

それにしても内村鑑三の激しい生き様はどうだ。
自分にはとてもこんなふうに生きることはできない。
宗教という力なのか、それとも内村鑑三の個人的な資質なのか。
基督教を、
だが、内村鑑三は、「宗教」と、感じてはいなかったように思える。
「宗教」というものを、一般観念におけば、彼もやはり、「宗教だ」と言うだろう。
けれども、彼の本心の中では、基督教を何かに置き換えたり、
属性を与えたり、価値を付与したり、ということは、とても不自然だったはずだ。
彼自身が、基督教であり、生活が内村鑑三であり、観念が生活であり。

そして、『世界教養全集』の18巻と21巻。
白眉は、「黄河の水」と柳田國男か。
「黄河の水」のように、中国史を概観しているものが他にあるだろうか。
歴史と地勢学を同時並行に書き進めていく方法は、まさにアラベスク。
わかりやすい。理解しやすい。高校あたりの教科書はこれにすればいい。

柳田國男は、まさに柳田。言うことはない。
彼自身が方法であり、手法であり、目的であり、柳田國男は何者でもない柳田國男だ。

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『内村鑑三集』【近代日本思想大系6】

(502)
編集・解説/内田芳明

余はいかにしてキリスト信徒になりしか

後世への最大遺物
地位の満足
信者の娯楽
近代人
新旧の別
家庭の建設
骨肉の反逆
恋愛の自由に就て
青年に告ぐ
落第生の慰むるの辞
師弟の関係に就て
弟子を持つの不幸
余の耐えられる事
高橋ツサ子
愛女の墓に葬る
黒田清隆伯逝く
クリスマス夜話=私の信仰の先生
東京独立雑誌廃刊の真因
信仰復興のきざし
天然と人

失望と希望
日本国の大困難
基督教と日本
基督教と世界歴史
基督教と社会主義
基督信徒と社会改良
戦時に於ける非戦主義者の態度
非戦主義者の戦死
戦争廃止に関する聖書の明示
世は果して進歩しつゝある乎
神の国の建設に就て
預言研究の必要
世界伝道の精神

神の存在の証拠
神の全知全能に就て
摂理の神
贖罪の弁証
神の忿怒と贖罪
復又贖罪に就て
コンボルシヨンの実験
無協会主義を棄てず
無題
基督再臨を信ずるより来りし余の思想上の変化
基督再臨の二方面
再臨再唱の必要
基督問答

「諭吉・天心・鑑三」丸山真男

解説/内田芳明

年譜・参考文献

『世界教養全集18』

(462)
・「黄河の水」鳥山喜一
・「史記の世界」武田泰淳
・「敦煌物語」松岡譲
・「長安の春」石田幹之助

『世界教養全集21』

(485)
・「海南小記」柳田國男
・「山の人生」柳田國男
・「北の人」金田一京助
・「東奥異聞」佐々木喜善
・「猪・鹿・狸」早川孝太郎