●590●『オウエン/サン・シモン/フーリエ』【世界の名著 続8】
2009年7月11日 22:53:18
個人を超える美に対する絶対的な美学をもっているかどうか、と問う。
ぼくは稽古場だけを信じている。稽古場の彼らだけを信じている。
その統一された場を信じきれば信じきるほど、なぜか言葉が不自由になっていく。
口ごもる。言葉がでない。言葉が出ないというこの脳の中の現象にいささかとまどう。
言葉を待つ劇団員はそれ以上に戸惑っているのかもしれない。
語る言葉にこれほど不自由だと、困ってしまう。
ポンコツ頭め! ほら、見えてるじゃないか。それを語るんだ。
だから、それがうまくいかないんだ。
そりゃ見えてるさ。見えてることと、それを言語化することはまた別なんだよ。
そう、ぼくは彼らに、個人を超える美に対する絶対的な美学の所有を望む。
お前はどうなんだ。そんな「絶対的」と言える「美学」をもっているのか?
何の問いだ。笑わせるな。それがなきゃ今ここに生きちゃいない。
それがあるから
ただそれがあるから、生きてるんだ。
同じことを、劇団員一人ひとりに要求してる自分に気付いた。それを望んでいた。
それは、しかし、或いは、独善か・・・
もしかしたら、それは本当にもしかしたらだけど、
俳優であることと、俳優ではないこと、しかし全く同時に作品に携わることにおいて、
差異があるのかもしれない。
超個人の美への絶対的美学。10年近くかけてようやく自身言い得た一言だ。
同じ感覚を古今たくさんの創り手が語ってきた。
それは、芸術への定義としてであり、演劇という歴史に対してであり、
個人的な資質を問う問題としてであり、
ぼくは、それを最低の条件として、言い切る。超個人の美への絶対的美学の所有。
今回の脚本でぼくは、演劇は個人的な所業だと、書いた。
個人的な所業がなぜ他者に対して表現されなければならないかと、問うた。
答えは、書いていない。なぜなら、
上記した最低条件を脚本上で定義付けていないからだ。なぜ定義付けなかったか。
それは、超個人の美を無条件絶対的に信じ所有することの美学は、
必ず、時間を越えるからだ。
そして、この脚本は、時間を静止させることがその本分だから、
だから、最低条件を定義付けず、問いだけを発した。
劇団再生の次の公演では、その最低条件を徹底的に書かねばならないと思っている。
そして、それを徹底的に劇団員に要求するだろう、と、感じている。
稽古場から帰宅して、DVDプレイヤに映画をセットする。
時間が足らない。足らな過ぎる。時間がほしい。もっともっともっと時間が欲しい。
のんびりしたいんじゃない。ゆっくりと余暇を楽しみたいんじゃない。
走っていたいだけだ。速度を落とさずこのまま、ただこのまま、
それだけの時間が欲しい。
モニタにジャン・レノが買物をしている。
『オウエン/サン・シモン/フーリエ』【世界の名著 続8】
(590)
責任編集/五島茂・坂本慶一
オウエン
「社会にかんする新見解」訳/白井厚
「現下窮乏原因の一解明」訳/五島茂
「社会制度論」訳/永井義雄
「結婚・宗教・私有財産」訳/田村光三
サン・シモン
「産業者の教理問答」訳/坂本慶一
フーリエ
「産業的協同社会的新世界」訳/田中正人