●4010●8月/10452●『調律の帝国』『母と息子の囚人狂時代』『全国監獄実態』『刑務所改革のゆくえ』『日本の難点』『日本を貶めた10人の売国政治家』『新書365冊』『統計数字を疑う』『とてつもない日本』『理系の企画力!』『斜陽』『音楽』『予知夢』『死の家の記録』
2009年8月31日 22:21:11
公演前に読書ノルマを出してみて、慌てた。
読めていない。まずい。今月はやばい。公演があるからってノルマは許してくれない。
とはいえ、公演前・公演中は、なかなか時間が作れない。
神罰がくだる! 天罰がくだる! と自分を追い込んでみても、
どうしても、どうしても時間が作れなかった。ぼんやりと数ページを進めるだけ。
それでも、公演のための資料は読んだ。見沢さんの本は読んだ。
公演が終わり、追い込みだ、と本を手にした。
それでも肉体疲労と全身筋肉痛と気だるさと集中力低下と言葉からの逃避と・・・・
難しい本が読めない。仕方なく新書を手にした。仕方なく再読をした。
新書は、やっぱり読みやすい。一日3冊でも4冊でも読める。
そして、再読だ。
神奈川近代文学館で触れた、三島と太宰。
あらためて、読む。読むたびに味わいが変わる。何度読んでも変わり続ける。
ドストエフスキーも読んだ。
一ヶ月前から読み進めていて、ようやく読了。それにしても読書に関しては苦しい月だった。
ぎりぎりだ。10000ページノルマの難しさを嫌と言うほど思い知らされる。
来年は、別のノルマにしよう。
重量にするか、また冊数に戻すか、あるいは、テーマ攻略にするか、
どんなノルマでもいいけれど、ノルマがないと堕落してしまう。
きっと、あんまり読まなくなるだろう。
読書は、疲弊する。
読書なんか嫌だ、大嫌い、読みたくない、もう読みたくない、と、
毎日のように思う。嫌々読んでいる。苦行という言葉ばかり思い浮かぶ。
どうしてこんな思いをして読んでいるのか、自分で自分がわからなくなる。
多分、この部屋には2000冊くらいが積み上げられているだろう。
隣の部屋には段ボールに納められた何千という本がある。
それを見るだけで、うんざりする。自分がバカに思えてくる。何をやってんだ、と。
言葉なんか嫌いだ、本なんか大嫌いだ、と、今日も、思う。
思いながら、ページをめくる。
『調律の帝国』見沢知廉
(190)
『母と息子の囚人狂時代』見沢知廉
(268)
『全国監獄実態』監獄法改悪とたたかう獄中者の会
(352)
『刑務所改革のゆくえ』刑事立法研究会
(262)
『日本の難点』宮台真司
(286)
『日本を貶めた10人の売国政治家』小林よしのり
(248)
『新書365冊』宮崎哲弥
(366)
『統計数字を疑う』門倉貴史
(280)
『とてつもない日本』麻生太郎
(190)
『理系の企画力!』宮永博史
(224)
『斜陽』太宰治
(244)
『音楽』三島由紀夫
(263)
『予知夢』東野圭吾
(270)
『死の家の記録』ドストエフスキー
(567)
ノルマ達成のためだけに本を読んだ。
読書の楽しみも知識欲へのステップも思想への渇望もなく、ただただノルマのためだけに読んだ。
そんな読書に意味があるのか、と、よく聞かれる。
そんなこと知ったこっちゃない。自分で決めたノルマがあるから、それを守るだけだ。
鈴木さんが言う。ノルマがないと、本が読めないんですよ。
堕落するんです。まあいいや、ってなるんです。
そうなんだ。ぼくもそうだ。ノルマがないと、絶対にこれほどは読まないだろう。
読書が楽しめるレベルは人によって違うだろうけれども、
月に数冊から10冊くらいじゃないか。
楽しむために本を読んでるんじゃない、とあきらかに自覚したのはいつ頃だったろう。
読書は精神だ。読書は人生だ。読書は格闘だ。読書は戦いだ。読書は戦争だ。
読書は恋愛だ。読書はセックスだ。読書は憐憫だ。読書は侘しさだ。読書は悲しみだ。
楽しいことなんか何もない、とページをめくる音が暗く沈んでいくことを知ったのは
いつだったか。
ノルマを決めて、それを達成する。それだけだ。
寝ることよりも、食べることよりも、仕事よりも、なによりも読書を優先する。
優先してきた。今月はきつかった。
公演があり、その準備に追われ、言葉と言う言葉にぼくが食べられていくことを体感した。
見沢さんの言葉に、
ぼく自身の言葉に、
劇団員の言葉に、
お客様の言葉に、
会場の言葉に、
音楽の言葉に、
ぼくが喰われていく。ぼくが痩せたのは、言葉がぼくを喰ったからだ。
さすがに全集は読めなかった。ぼく自身の思想に追われ、他者の思想がここに入り込む余地が、
まったくなかった。
今日、台風の中書店にはいった。
ぼんやりと棚を見て回る。
読みたい本は、一冊もなかった。本が寂しく、並んでいた。
自己主張するでもなく、自若とあるのでもなく、諦念にあるのでもなく、
本がなんの表情も見せずにただ、並んでいた。
お客さんに手に取られ、嬉しそうな顔をする本もなく、
ぼくが一冊を手に取っても、何かを語りかけてくる本もなく、
レジで、ただお金とやり取りされ、ビニールの袋にいれられる。
声をかけてくる本は一冊もなく、ただ、寂しく並んでいた。
ぼくたちは、言葉を失っていっているのかもしれない、
と思った。
言葉があるのが当たり前で、それを操るのが当たり前で、
言葉の止揚方向に人間はなく、言葉が革命を起こしたいくつかの時代は忘れられ、
ぼくたちは、言葉を失おうとしているのかもしれない。
言葉があるのが当たり前か、
言葉をしゃべるのは当たり前か、
こうして言葉を書けることは当たり前か、
言葉が存在することは当たり前か、
書店に並ぶ本を見て、
いかん、どうも最近涙もろい、涙が溢れてきた。
ぼくは、言葉の千年王国を夢見た。そこに近付こうと宗教にも似た信仰をもってきた。
言葉の千年王国だ。
そこには、空よりも高い空が言葉し、
海よりも青い海が深く言葉し、
そこに生きる何もかもが、もっと高く、もっと深く、もっともっと、と手を伸ばし、
言葉は生き生きと言葉し、
ぼくたちは、言葉の王様を見上げ、空に手を伸ばす。ユートピアだ。
ぼくは、そこに、いきたい、そう思ってきた。今も思っている。