●657●『カナリアが沈黙するまえに』『戦争文学を読む』

2009年6月29日 01:04:42



今月もとんでもない月末。毎月毎月、月末がやってきて、体を壊す。
体を落とさないように何とかうまく予定を調整しようとおもうのだけれども、
あっちを立てればこっちが立たず、何もかもを同時に立てなければならず、ままよ、
どうにでもなりやがれ、どこかの素人のように徹夜の予定が立ったり、成り行きの予定に流したり。

なんにせよ、あれもこれも終わらせないとどうにもならない。

そして、そんな個人の予定にはお構い無しに劇団再生の稽古は積もり重なる。
演劇人が演劇をするということが一体どういうことか、とぼくは台詞に書いた。
劇団再生の劇団員が演劇をするということが何を意味するか、それをぼくは脚本に書いた。
時間に追われるなかで、大切なことを忘れかけてしまう。
忘れないようにしっかりと書いた。そして、今も書いている。
言葉の価値転換は行われてきた。それは明らかに行われてきた。
1500年代のそれは、ルターによって行われ、
1800年代のそれは、ゲーテに発し、
1900年代のそれは、ニーチェが起こした。
だが、言葉は言葉以上のものになることはなく、言葉以下の何かにもならず、
言葉は依然伝達表現の手段という枷を逃れることなく、
言葉が目的になるためにも、言葉を手段にせねばならないという自家撞着の中で、
言葉はあがき、言葉はもがき、言葉は苦しみ、
いつも脚本を書き始めると騒ぎ出す彼らの一挙手一投足に、寂しさだけを感じ、
言葉を用いずに、言葉自体を目的化できないかと、

いつも、そこに目をやる。
概念を描くことはいくらでも書ける。
言葉になるんだ、と書くことはできる。
本になるんだ、とそれを一本の演劇にすることはできる。けれども、それはやはり、
言葉をもってしかすることはできず、

達磨面壁。

こんな役立たずの手なんかいらぬ。切り落とせ!
こんな役立たずの足もいらぬ。切り落とせ!
ぽっかりと空いたまっくらな無の中で両手両足を切り落とした自身の姿に歓喜する。

まっくらなまんまんなかの無に自身を置き、ぼくは何を語るだろう。
語ることさえ不純に思うだろうか。矢場の自狂の美しさに嫉妬しながらぼくは舌を噛み切る。
こんなに真っ暗なら目も入らぬか。潰すための両の手は、もうない。目を閉じ続け、

右も左も上も下もないまんなかに座り、言葉をただ目的とする。

前にゲーテを題材に選び、書いたことがある。
ゲーテの天才に憧れて、近付きたかった。
そう、天才という奴がやっぱりいるんだ。
シェークスピアは、戯曲の天才だ。
李太白は、抒情詩の天才だ。
ドストエフスキーは、小説の天才で、ホメロスは叙事詩の天才だ。
ダンテは比喩の天才であり、ニーチェは思考の天才だ。
彼らはそれぞれに天分を遺憾なく発揮し、作品を遺した。それぞれのフィールドで作品を。

けれども、ゲーテは、それら全てのフィールドで彼らをしのぐ天才だと思った。
初めてゲーテに触れたあの驚愕を、

達磨面壁、思い出すことがある。
思い出し、彼に、彼らに近付くために、この不要な両手両足を切り落としたいと、
抗いがたく思う。決まって真夜中。

月末か、時間が過ぎることを待っていては何も終わらない。
時間を追いかけろ、と野菜ジュースを飲んだ。
稽古場からの帰り道、夕方の大雨はすっかり上がり、少し太り気味の三日月。
なんだ、月が見えるじゃないか。
月を追いかけながら、先ほどまでの稽古を反芻する。
劇団員一人ひとりの顔を思い浮かべる。
バイクのアクセルを開けながら、一人ひとりに声をかける。
稽古場からの帰り道、さあ、稽古に行くか、と不敵に笑ってみる。

『カナリアが沈黙するまえに』

斎藤貴男(304)

『戦争文学を読む』

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