●751●『現代史大系〈第2 第1〉ファシズム アドルフ・ヒトラー』『アドルフ・ヒトラーの青春―親友クビツェクの回想と証言』
2009年11月11日 05:14:09
いつだか、この「高木ごっこ」で天才を選んでみたことがあった。
戯曲の天才は、シェークスピア。
抒情詩の天才は、李太白。
小説の天才は、ドストエフスキー。
叙事詩の天才は、ホメロス。
比喩の天才は、ダンテ。
思考の天才は、ニーチェ。
沈思の天才は、ソクラテス。
独語の天才は、埴谷雄高。
と、まあ、こんな選択ならいくらでもできる。
そして、やっぱりゲーテか、と。
戯曲のシェークスピアも、小説のドストエフスキーも、比喩のダンテも、思考のニーチェも、
天才の彼ら全部をひっくるめて、それぞれの分野で彼らをしのぐのが、ゲーテだ。
ゲーテに初めて触れたときの驚きと絶望を、まざまざと今も思い出す。
ずっと脚本を書いてきた。言葉で書いてきた。
ぼくは脚本を言葉で書いている。そして、ほぼ日本語で書いている。
万年筆を使い、原稿用紙に書いていく言葉は、
一文字ずつ連絡し、一節となり、一行となり、少しまとまり一ページとなり、
それが何十枚にもなって、一本の脚本になる。全て言葉だ。言葉で書いている。
原稿用紙に書き付けられる言葉に、言葉以上の思い入れを感じたり、
言葉と肉体を対比させて、言葉の下位性に地団駄踏んでみたり、
やはり言葉の優位において言葉自体に言葉以上の価値や感情を付与してみたり、
してみたこともあった。
言葉は、
言葉だ。
それ以上でもそれ以下でもない。言葉は、言葉だ。
言葉に「それ以上」を求めることも、「それ以上」を信じ込むことも、
「それ以下」と精神性の優位に立つことも、「それ以下」と滅びの美学に美することも、
ひとたび「言葉」、と発語した人間の弱さのあらわれだ。全て、弱さのあらわれだ。
言葉はそれ以上でもそれ以下でも、ない。
もちろん、言葉の価値性においては、これまでの歴史で随分と変化してきた。
それは、あくまでも「価値」においてだ。
16世紀のルター、19世紀のゲーテ、20世紀のニーチェ。
彼らは、確かに言葉の価値を変換させた。それまでの「価値」に革命を起こした。
天才の彼らが、言葉の価値革命を起こしてきたとはいえ、
過去の歴史において、言葉が言葉以上になったことはなく、言葉が言葉以下になったこともない。
21世紀。今も、行われている。
15世紀以降の明らかな価値転換とは、速度の違う価値転換。21世紀。今も。
緩やかに、
言葉。ただ、言葉。
言葉は依然、伝達・表現の手段という枷を逃れることなく、
言葉が目的になるためにも、言葉を手段にせねばならないという自家撞着の中で、
言葉はあがき、言葉はもがき、言葉は苦しみ、言葉は滅びの道をひた走る。
脚本上に騒ぎ出す彼らの一挙手一投足に、寂しさだけを感じる。
言葉を用いずに、言葉自体を目的化できないか。
達磨、面壁。もみじ散る。面壁九年、両手両足切り落とし、
達磨の背中にもみじ散る。
『現代史大系〈第2 第1〉ファシズム アドルフ・ヒトラー』アラン・バロック
(314)
『アドルフ・ヒトラーの青春―親友クビツェクの回想と証言』アウグスト・クビツェク
(437)
明日、本番を迎える『空の起源〜天皇ごっこ〜』
その稽古が積み重なる。
この脚本を書いているときに感じた、書くということの感動と喜びを思い出す。
どこにも技巧的な装飾を施さず、過度な形容に振り回されることもなく、
ただ、嬉しくて書き継いだ。書くことが楽しくて、踊る言葉と手を取り踊り、書くことが楽しかった。
書きながら生まれてくる言葉に一喜一憂し、
思いもよらなかった言葉の誕生に恐怖し、快楽を覚え、
ただ、
嬉しくて、楽しくて、書いていた。
書いて、劇団員に配り、稽古にはいった。そして、今もこうして稽古が積み重なっていく。
数日後の本番。
言葉で書かれた脚本。
脚本という一枚の絵画。
脚本という一通の遺言状。
脚本という一粒の種子。
脚本という一滴の大河。
脚本という一片の雪片。
脚本という砂上の楼閣。
脚本という空に浮かぶ死体。
脚本という演劇から一番遠く離れた文学。
脚本という舞台に一番近付いた思想。一番遠ざかる思考。
ぼくが書いた脚本は、そんなものになっていく。
絵画や遺言状や、生き抜く種子や大河の一滴、降り降る最後の一片砂漠に流れる絢爛豪華。
ぼくが描いた脚本は、そんなものになっていく。
空に浮かぶ、死体。空に浮かび積もる、死骸。
遠ざかりながら、近付く。
近付きながら、遠ざかる。
理解者が欲しい、と思いながら、書いてきた。
ずっと脚本を書いてきた。ただ、何十枚も何百枚も書いてきた。
脚本とは何か、と今も自問しながら、脚本を書いている。
セリフに書ききれないことは、ト書きに書いてきた。
長い長いト書きに自分でも呆れながら、それでも、一本の作品において
書くべきことは書いてきた。
一本の脚本には、きちんと書くべきことは、書いてきた。
この『空の起源〜天皇ごっこ〜』もそうだ。書くべきことは全部書いた。
今になって昔の作品を読み返せば、あまりの不理解に恥ずかしくもなる。
けれども、それを書いた時点でのそれらがぼくの人生に対する理解の全てだ。
100万人の読者よりも、一人の理解者。そう思う。
ぼくが手に入れてきたいくつかの言葉は、個人的な言葉で、そのまま作品には書けない。
何十年も経ってその一言が一般化してようやく、書ける。
100万人の読者よりも一人の理解者。或は真の読者。
言葉で書かれる脚本。脚本という一番遠い演劇。そして一番近い演劇。
言葉で書かれる脚本。脚本という絢爛豪華な遺言状。
遠ざかりながら近付き、
近付きながら遠ざかり、
空は、空にはなく、空にある。
空は、空にあり、空にはない。
と、次の脚本を書き始めた。
また、書くべきことは全てその一本に書かれるだろう。
書くべき全てを書くために約束の日がある。
空は、空にはなく、空にある。
空は、空にあり、空にはない。
次の脚本の一行目に、そう書いた明日は本番空の起源。