『言葉にのって』『ナショナリズム』『人でなし稼業』『謎の出雲・伽耶王朝』『しまった! 「失敗の心理」を科学する』『学校では教えてくれないオモシロ科学実験』『科学と神秘のあいだ』『機械じかけの数学』

2010年5月16日 21:41:43




それにしても、頭っていうのはいろんなことを考えるもんだ。
一つの着想と向き合っているつもりがいつの間にか、
その周囲に散乱する膨大なパーツを一つ一つ検証していたりする。

演劇のことを考えたり、読書のことを考えたり。

演劇一つをとってみても、考えるべきことは無限にある。
その無限さに呆気に取られながらも、一つ一つ潰していく。
一つ一つだ。そのパーツによっては、他のパーツとは全く逆の証明がされたりもする。
けれども、それはそれ。

全てが必ず有機的にリンクするはずだ。その確信はある。

演劇は、真か、偽か。
と、設問。そして、演劇を分解していく。
大状況的分解。その前に、演劇に境界条件を設定し一つの定義を与える。
そりゃそうだ。その境界的定義がなければ、とんでもないことになる。

演劇には、脚本がある。俳優がいる。演出家がいる。
脚本があるならば、それを書いた劇作家がいる。上演が予定されるなら、会場がある。
例え入場者が一人もいなくても上演が予定されるなら、観客も予定される。
なんとなくそんなものが演劇だ。この辺は曖昧でもいい。
大きな定義として、そんなことを考えている。

もちろん、
演劇とは、秒針と分針があり、一定の速度を持ってそれらが運動し、
それらの運動は、他者に対して何らかの決定を指示することだ、と定義も可能だ。

もちろん、
どうにでも勝手に定義できる。

けれども、
そんなことを始めたら、楽しくて楽しくてたまらなくなってくる。
ただでさえ短い睡眠時間が、ますます削られることになるだろう。
健康を犠牲にしても取り組むべき定義かもしれないけれど、それにしても、だ。

演劇を定義する。脚本だの俳優だの会場だの観客だの、と。
そして、またそれらを分解していく。
脚本を構成しているパーツに向き合う。言葉だの、単語だの、テーマだの、モチーフだの、と。
そして、それらを考えていく。

言葉とは、何か。
単語とは、何か。
テーマとは、何か。

そして、引き上げる。
定義された言葉は脚本にとって何を意味しているか、と。

そんなことをいつもやっている。
ほとんどの時間をそんなことに費やしている。
何をしているときでも、それらの考えるべきパーツはそこにあり、
別の何かを能動しているときも思考は続く。

読書に関しても同じだ。同じように考えている。
週明けの水曜日、19日。読書、ということに関してトークライブ。
『左右を超越する読書術!』

そうそうたる登壇者に混じって、ぼくも参戦。楽しみだ。面白いイベントになるだろう。
どんな結論がでるのか、でないのか。共同宣言なんかが出たら面白いけれども、さてどうか。
と、これを書きながらもやっぱり考えている、演劇。

考えるな、感じろ。

と、声が聞こえてくる。先人の声だ。
わかってる。わかってますよ、先輩方。その古臭い「掛け声」の意味も感覚も。
黴のはえたその一言。
それを口に出し続けた歴史。口に出してしまったからこそ、先人は気付かなかったんだな。

考えることと感じることが同義且つ同位だということに。
じゃあ、高木、お前はなんて言うんだ! なるほど、子供のような問いかけだ。

口にするはずがないじゃないですか。
そんなものは、発語した瞬間に意味を失くすんですよ。言っちゃいけない一言でしょ。
それを口にするときは、演劇をやめるときですよ。
あんたがたは、演劇の真っ最中に思いつく限りのいろんなことを言いすぎたんだ。
偉そうに口にするたびに、それらが意味をなくしていくことに気付かずに。

結果、空論ばかりがのろのろと。

と、こんなことを書きながらも演劇のことを考えている。
考えていることは口にすることはできる。いくらでもできる。
むしろ、発語したい、という欲求が強い。

一冊の本を読むここと、言葉の空を読むこと、それを秤にかけながら、
時計の電池を抜いた。

『言葉にのって』ジャック デリダ
『ナショナリズム』浅羽通明
『人でなし稼業』福田和也
『謎の出雲・伽耶王朝』関裕二
『しまった! 「失敗の心理」を科学する』ジョゼフ・T・ハリナン
『学校では教えてくれないオモシロ科学実験』篠原功治
『科学と神秘のあいだ』菊池誠
『機械じかけの数学』マーク・レヴィ