『江戸っ子はなぜ宵越しの銭を持たないのか?』『人はなぜ夢を見るのか』『資本論の世界』『他者と死者』

2010年8月6日 17:18:04



こんな本を読んだけれども、ただそれだけのことだ。
売店で手にした新書。
江戸っ子がどうして宵越しの銭を持たないのかどうかなんて、
実のところどうでもいい。興味すらない。でも手にして読んだ。
江戸っ子全員が宵越しの銭をもたなかったはずないじゃないか。
そんなのはどう考えてもマイノリティだ。当たり前だ。そう思うも手にして読んだ。
落語をモチーフに扱いながら、なんだかそんな江戸の風景を描いていた。
読んだ。ただ、それだけのこと。

人がなぜ夢を見るのかなんて、実のところどうでもいい。興味もない。
でも読んだ。読んでみて、読み終えてみた。読書ノルマなんか関係ない。
読み始めたら、読み終わるまでだ。夢、か。ぼくは確かに夢を良く見る。
ほとんど毎晩だ。そして、その夢を案外クリアに覚えている。
でも、どうして夢を見るのかなんてどうでもいい。

資本論に関する本を読んだ。ただ、それだけだ。
これを読んだからと、資本論を読んだことにはならない。
そりゃそうだ。だから、今、資本論を読んでいる。真っ赤な表紙の全10巻。
今さら資本論か、と思うも、読んでなければ否定も肯定も、そも語ることすらできない。
右だの左だの喧々諤々したところで、資本論を読んでなければ参加すらできない。
いや、右だの左だのに参加したいわけじゃない。
参加したくないから、資本論を読んでんだ。

レヴィナス考を読んだ。
アルトーを再読している。
レヴィストロースを読んでいる。
車谷長吉を読んでいる。
野村秋介さんの著作はいつも机の上だ。
数分の時間があれば、北一輝を開く。
食事の準備をしながら山頭火を読む。
埴谷雄高の著作も机の横に並んでいる。
ポケットには寺山修司と太宰治の青森県をしのばせる。
やっぱりロープシンかとこっそりページを開いてみたりする。
パウル・ツェランに詩をし、高橋和巳を睨みつける。

本を読みながら、行く末を思う。

『江戸っ子はなぜ宵越しの銭を持たないのか?』田中優子
『人はなぜ夢を見るのか』渡辺恒夫
『資本論の世界』内田義彦
『他者と死者』内田樹

読書なんかどうでもいいんだ。
人に薦められることでもない。大体健康に悪い。
精神にはどうか。一長一短か。「文学かぶれ」と悪く取られていた時代もある。
哲学だの思想だの、健康にいいはずがない。
それでもまあ、ゆるやかな自殺か、読書は、と、思う。

一冊読むたびに少しずつ命を削る。

死んだらそれまで悲願も成就か、と本ばかり読んでいる。
健康に悪いにも関わらず、それでも読んでいる。
これからは、読書なんかやめなさい、と伝道するか。
健康第一、健康第一。

それはそうと、自宅の書籍を整理するか。
段ボールに詰まっている何冊あるのかわからない本を、とりあえず、
データベースに入力していくか。
面倒だな・・・
でも、しておくにこしたことはない。
一冊の本を探すのに、数時間かかることもある。無駄だ。
データベースに入力しておけば、といつも思うけれども、入力の時間は、ない。

それともたった一冊のぼくだけの本を残して、全部処分するか。
それも一手。官能の一手だ。

さあ、書くか。
本なんか、読まなければそれにこしたことはない。
読まずにすむならそれにこしたことはない。

さあ、いくか。