一月が過ぎ、二月が過ぎ。三月四月五月六月。
2018年2月12日 10:35:50
高木ごっこと10年遊んできたが
さて、今日は紀元節、じゃなかった、建国記念の日。
感傷的になっているわけでもないし、
何かを後悔しているわけでもない。
諦めたわけでも投げ出したわけでもない。
年を取ったのかな、と感じることが多くなった。
10年前は、とにかくとにかくとにかく作品を創ることにまさに情熱を傾けていた。
それは、情熱を傾けるために作品を創っていたのか、
作品があるから情熱を傾けていたのか、
情熱を維持するために、情熱を傾けたかったのか、
もう今やなんだかわからないのだが、毎日毎日、「作品を創る」ことだけを考えていた。
それが、正しい毎日だった。そんな毎日がずっと続いていた。いつまでも続くと思っていた。
情熱は、永遠にここにあるのだと思っていた。いや、それが当然だからここにあることすら疑いもしなかった。
作品は、永遠にここにあるのだと思っていた。
思っていた、と書くと、(今は?)と思われる。
正確に書くと、10年前の情熱と作品とはまるっきり違う情熱と作品がある、かな、としか言えない。
きっとそれを言いきるには、あと10年くらいはかかるんじゃないだろうか。
とはいえ、
そんな心持ち、を持て余している。
え? 俺、間違ってる? こんな心持ちは、こんな情熱や、こんな動機は、こんな毎日は、
例えば「演劇」という作品を創るのには、否定されがち? なんて。
上京してからの演劇体験が深い傷跡のように今も心と行動を制御する。まじで怖い。
20年かけて刷り込まれ、体験した、ある種の常識は、そんなに簡単にはひっくり返らないんだな、と思う。怖い。
論理的に自己を正当化しようとすればいくらでもできるが、
その現在の正当性に感情という裏付けがくっつかない。
論理的に正しいんだ!!!!!
と叫んだところで、
でもなー、なんかなー、なんか違う感じが、なー、なんで? んー
感傷的になっているわけでもないし、
何かを後悔しているわけでもない。
諦めたわけでも投げ出したわけでもない。
こんな感覚が新しい情熱なのかな、と思ったりして、自分を落ち着ける。
そんなことを思っているうちにいつの間に眠っていたりする。
ああ、そういえば、コトバさん。
餌を待っているうちにこうしていつも寝ていたな、と思いだす。