7月公演『猶予された者たち』
2018年6月22日 12:09:44
この作品こそ、究極の『読書劇』かもしれない
何年も「読書劇」と冠した作品を上演してきた。
最初のうちは、「読書劇? 朗読劇でしょ? 役者さんが本をもって、それを朗読するだけでしょ?」と思われていた。
でも、そうではない、ということを作品を重ねることで証明してきた。
読書劇は、朗読ではない。朗読するのなら、「朗読劇」と明記する。
読書劇は、舞台作品の一ジャンルだ。
読書の解釈がそのまま演出されるという、今や総合芸術という恐ろしい名前で呼称される演劇の進化の一過程だ。
作品を発表する時に誰もが、意識的に或いは無意識的に通過している、また或いは通過してきた思考のある部分だけを取り出して表現するものだ。
この過程を通過しないと、演劇なんか創ることができない。
舞台表現に携わる誰もが全員必ず通っている道を視覚化したものだ。
と、前置きはここまで。
7月の作品は、『猶予された者たち』
これは、「読書劇」とは冠していない。
けれども、明日から稽古に入ろうという梅雨の晴れ間の今日。ふと、思った。
あれ? この表現方法って、まさに思考そのものじゃない?
って、あれ? これこそが自分の思い描いた「読書劇」?
と。
六本木の小さなギャラリー。地下空間。
30年も前に出会った一冊の本が30年の思考や経験や喜びや悲しみを通過してどうなっているのか。
物語
この作品は、カネッティが作り出したある特殊な状況下での物語です。
登場人物の名前は、全員「数字」です。その数字はその人物の寿命をあらわしています。
「25」という名前の人は、25歳で死にます。
「79」という名前の人は、79歳まで生きられます。
それだけが絶対の世界です。「なぜ?」、「どうして?」と考えてはいけません。
その状況が当たり前の世界です。
人びとは、自分がいつ死ぬのかをはっきりと自覚して生きています。「社会保障は?」、「教育は?」、「福祉は?」などと考えてはいけません。
名前として「与えられた寿命」で死ぬのが当たり前の世界なのです。
生まれたときに自分の名前=寿命が与えられ、それにそって計画的に生きるのがこの世界での正しい生き方のようです。
「誰が?」、「どのように?」、「経済は?」、「法律は?」いろいろな疑問が湧き上がります。突っ込みたくもなります。
でも、「そんな世界」なのです。
ブルガリア出身のユダヤ人作家、思想家。激動の20世紀を見続け、書き続けたノーベル賞作家、エリアス・カネッティ。
彼はこの作品で何を描きたかったのでしょうか?
いろいろな読み方ができます。個人の唯一の財産(命と時間)に対する権力との関係。或いは、カネッティが生涯をかけて追求した「群衆」というものの一つの解。
それはそれで正しいと思います。でも、ぼくにはそれ以上に、
「名前が寿命? なんだそれ? どうやって生きるの?」
という読み方でこの作品を解釈しています。
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