『賭博者』著/ドストエフスキー_訳/原卓也
2008年1月12日 23:04:26
右手中指の爪の右側が鉛筆になればいいのに。
そうすれば、本を読みながら鉛筆を持たずにすむのに。
寝っ転がって本を読んでいるときには、とても便利なはず。
現在は、右手中指に鉛筆がないため、
横になり、本を持ち上げ、右手には鉛筆を持ち、
線を引いたり、メモを取ったりしている。
長時間になると、さすがにうとうとしたりもする。
そうすると、鉛筆が手を離れ、顔の上に落ちてくる。
これまで、それで怪我をしたりはないのだけど、
極度の先端恐怖を感じる自分には、
鉛筆の先が目に落ちてくると想像しただけで、
おしっこに行きたくなる。
右手中指に鉛筆が装備されたら、そんな心配もなくなるのに。
それに、食事をしているときに本を読んでいて、
線を引いたりしたくなると、
一旦箸を置かなければならない。
右手中指に鉛筆がついていれば、
箸を持ったままメモも取れるのに。
そんな有益な肉体に進化しないものか。
或いは、眠らなくて良い体か、
食べなくても良い体。
そんな進化をすれば、現在の問題はなくなって、読書に集中できるな。
『賭博者』
著/ドストエフスキー_訳/原卓也
雨は降りながら、音を連れてくる。
冷たい雨、と、昨夜天気予報のにいさんが言ってた。
確かに、寒い。
パソコンで仕事をしつつ、
足元には電気ストーブ。
昨日の夢に触発されたからなのか、
急に読みたくなったドストエフスキー。
ドストエフスキーの5大長編はもちろん大好きだけど、
短編・中篇も大好き。
本書も好きな作品の一つ。
内容は、タイトルどおりなのだけれども、
心の揺れの見事な言語化。
感情の振幅の精緻な描写。
その2点だけでも読む価値あり、なんて思う。
もちろん、物語としても予想がつきつつも楽しませてくれるのは、
ドストエフスキーならでは。
だって、タイトルから分かるとおり、
女→金→ルーレットとこれしかない道筋をたどるけれども、
なぜか、なぜか、それが楽しい。
ドストエフスキー自身の経験に裏打ちされているからなのかもしれないけど、
短い作品の中に俗世のエッセンスが凝縮されてる。
そして、深読みしようと思えば、いくらでもできる。
ロシア農本主義とヨーロッパ貴族趣味の対立、
金銭的価値の芸術への昇華。
人生の短さと爆発的燃焼の激しさ。
自己目的化される手段と目的。
二者対立は、包含されるが、アウフヘーベンすることはなく、
だけれども、それが人間の本質だ、そう語っている気もする。
そう、いくらでも読めるという楽しさ。
何度も読んでいるので、折り合いをつける事もなく、
この表紙の懐かしいドスト氏の顔を見たら、
一息に物語に入り、一息に読みきる。
読みきると、目がしょぼしょぼ。
またパソコンに向かう。
右手には、まだ鉛筆は装備されていない。