●238●『愛国と米国―日本人はアメリカを愛せるのか』鈴木邦男
2009年6月18日 01:33:27
先日紹介した鈴木さんの新著『愛国と米国』が発売されました。
全国の書店、新書コーナーには置いてあります。
鈴木さんは、この本を自身のHP「鈴木邦男をぶっ飛ばせ!」で省察されています。
さて、
感想? 書評? んー、ここに書こうと思ったけれども
鈴木さんに感想をメールして言いたいことを言ったので、ある種燃え尽きた部分があり、
今、ここに新たに書き出すパッションが生まれてないなあ。
鈴木さんに送ったものを転載することはできるけれども、
それはあくまで私信だったわけで、どうもやっぱり気がひける。
『愛国と米国―日本人はアメリカを愛せるのか』鈴木邦男
(238)
その鈴木さんから、今日たくさんの本が送られてきた。
宅配便の兄さんに「二口です。本ですね。重いですよ」と言われて、
玄関先でその二つの包みを受け取った。確かに重い。
もしや、大量の黒色火薬かプルトニウムか、と思う暇もなく包みを開いた。本だ。本たちだ。
思想書・全集ばかり読んでいる現在の目にとてもカラフルに映る最近の本たち。
石川三四郎を読み終えた回路に時局論が入り込む余地がない。
三大ユートピア社会主義者の足跡を読み追っている今、短期思想が食い込む回路はない。
そして、真夜中、
少しずつ脚本を書き足している。
そう、書き足しいている、という表現が一番近いかもしれない。
書き進めている、ではない。
書き継いでいる、でもない。
削りだしている、でもなく、
書き足している。
舞台全体の明確すぎるビジョンとイメージがあり、
脚本を起こし、文字にする、ということが、とても無為に思えるほどだ。
画がありすぎる。脚本がなくても舞台化できると思っている。そんな舞台だ。
舞台のイメージを言葉にしていくことに情熱を費やしてきた一年だった。
つくり上げてきた自身の方法論を書く度に捨て、
一から方法自体を模索してきた。方法論を捨てて方法自体を構築するという方法も先が見えた。
そんなのはもういつでも書ける。どんな題材でもすぐに書ける。
だから嫌なんだ。書いて満足したことなんて一度もない。いやになるばかりだ。
何も知らない何もわからないただ一枚の画があるだけだ、ということを言葉にする自虐。
その自虐性が書くということの一つの属性だとも思っていた。
消耗や苦闘が美学になるという美学が自分の中にあることもわかっている。
じゃあ、8月の舞台は?
書き足していく。イメージをこれでもかと肉厚に足していく。このやり方しかないと信じた。
当初、劇団員一人ひとりに別の脚本を渡そうと思っていた。
11人の劇団員、その全員に別のテキスト。一つずつに専用の脚本を書こうと思っていた。
今回の舞台において、そのやり方が一番正しい。
そして、今、その正しい道の上でその理念からぶれることなく、書き足している。
劇団員一人ひとりを書き足している。
君たちの命が一人の人間を作り出すんだ。
登場人物などという使い古されたカビの生えた概念を捨て去ろう。
時や場所という限定されたものから人間を作り出すことなんかできない。そんな考えは捨ててしまえ。
君たちが稽古場で生ききることが、
見沢知廉の指となり、
見沢知廉の顔となり、
見沢知廉の足となり、
見沢知廉の髪となり、
君たちの命の燃焼が、パッションが、爆発が、人間創造の細胞を
自己増殖させる。
今日、書いたところまでの脚本を劇団員に送った。