『岡倉天心集』【近代日本思想大系7】
2010年1月1日 21:39:54
金曜日か。また一週間が経とうとしている。
明日は土曜日。劇団再生の稽古日だ。
いつもの土曜日。劇団員が集まってくる。そして、稽古がまた一歩重なる。
本稽古開始まで1ヶ月。一月末から、3月の舞台の稽古が始まる。
その脚本を書いている。
いつもいつも、あと1ヶ月か、という時期が来る。何故か、必ず来る。
そして、それが来ると決まって身が引き締まる。
一ヶ月前か、いつも生活を変え始める。
書く時間を最優先に作り、それは何をおいても最優先で、その時間は一人、必ずここにいる。
毎日その時間がくると、一文字も書けなくても決めた時間の間は原稿用紙の前に座る。
考えることができなくても必ず万年筆を持つ。興が乗ってどんどん書けていても、
決めた時間がくると、ペンを置く。どんなに名残惜しくてもやめる。
そんなやり方がいいかどうかそれは、わからない。
これまでそうやってきた、というだけであり、今もそうしているというだけだ。
今日も時間になれば、ここに座り原稿用紙と対峙するだろう。
書けるかどうか、それはわからない。わからないけれど、その時間にはここに一人、座っているだろう。
携帯の電源を切り、あれやこれやをシャッとダウンし、ノイズを軽減し、ここで。
イラつく毎日だ。ノイズだらけの毎日だ。
バクーニンの言葉がリフレインする。
「破壊のパッションは、創造のパッションだ」
何もかもぶち壊してやる。壊すべき最大のものは、そう考えているその思考だ。
そして、その思考の本体は、言葉だ。言葉を破壊し、同時にそれは、言葉の創造。
そうだ、思い出した。確かにそうだった。言葉の創造に最大の力を使っていた時期があった。
その感覚は、ある時不意に、言葉の探査に変わった。
言葉は、在る。それを見つけること。
そう感じて長い間の五里霧中。
ずっと、言葉上位、言葉畏怖の感覚に捕らえられ続けてきた。
今は、
どうだろう。
言葉を作る、という感覚や、言葉を探す、という感覚はあまりない。
言葉は在る、そして無い。言葉は、ただの言葉で創るものでも探すものでもない。
ただ、在る、そしてどこにも無い。言葉は時間だ。流れゆく時間だ。
言葉は、仲間だ。信頼のおける友達だ。言葉は上に居るものでも、畏れるものでもなく。
世界最初の言葉を探してきた。言葉の千年王国を夢見てきた。
今もそうだ。世界で最初の言葉を書きたい。言葉の王国で夢幻したい。
本当かどうかは知らないけれど、
この一年でぼくは、世界で最初の言葉を知った。見つけた。手に入れた。
言葉の千年王国を見た。そこに行った。そこで遊んだ。
わかっちゃった。バクーニンがそんなことを全て止揚してあの一言を言ったのなら、
破壊は、時間と同義であり且つ時間の否定を意味する。
創造は、神と同義であり且つ神の否定を意味する。テロリストになるんだった、と不意に思い出す。
『岡倉天心集』【近代日本思想大系7】
結局、読むか、書くか、死ぬかしかないじゃないか。
テロリストの時間を止揚しようと劇団再生で徒手空拳。2年間、じたばたしてきた。
今もじだばたばたばたしているけれども、テロリストの時間はアウフヘーヴェン。
すんなりとぼくたちと共にある。もう少し上があるかな、と思うも、今はそれが見えない。
言うとするならば、あの言葉しかない。「神は死んだ」と。
何通かの手紙を書いた。
本を読んだ。
レコードを聴いた。
ネチャーエフは、書き残している。
「吾々にとって、思想は、根本的な、普遍的な全絶滅の偉大な事業に役に立つに限り、価値がある。
然し、現存する如何なる書物にも、かかる思想は存しない。
書物より変革的な事業を学ばんとする者は、常に変革の無能者にとどまる」
そして、そのネチャーエフをモデルとした『悪霊』の中の
ピョートル・ヴェフォーベンスキイは、こう問いかける。
「どちらが諸君にとって望ましいか、忌憚なく明瞭に述べて頂きたい。
亀の子のように泥沼をのろのろと這って行く方か、それとも、
全速力でその上を飛び越える方か」
『悪霊』の中でその問いに対する一座の答えは、皆同じだ。
革命家のカテキズムの中でネチャーエフは、言う。
「革命家は、前もって刑をいいわたされた人間である」と。
それが、また一つの答えでもあるだろう。ドストエフスキーもこの教理問答は知っていたはずだ。
テロリストという時間。それは、やはり止揚されなければならない。
結局、読むか、書くか、死ぬかしかないじゃないか。
何通かの手紙を書いた。
『岡倉天心集』【近代日本思想大系7】
編集・解説/梅原猛
東洋の理想
日本の目覚め
茶の本
日本美術史
狩野芳崖
美術教育施設に付意見
日本の見地より観たる近代美術
東洋美術に於ける自然
「岡倉天心」竹内好
解説/梅原猛
年譜
参考文献