『永続革命論』

2010年2月24日 20:57:27

演劇が芸術になりえた例がこれまでにあるか。
あるなら教えて欲しい。知りたい。
演劇が芸術であった作品を知りたい。もちろん、
芸術をどう定義するかという根本問題をここで定義していないから、
いくつもの解が存在するだろう。わかってる、そんなことは。
けれども知りたい。演劇が芸術たりえた例を教えてくれ。
俺はそのあたりは不勉強だ。演劇史に対する知識や解釈も怪しいものだし、
現代演劇にいたってはそのありように対する論文など読みもしていない。
おまけにあちこちの劇場に足を運びこれが芸術だ、という演劇を探すこともしていない。
そんな努力なしに教えてくれ、というのは虫のいい話だ。わかってる。そんなことは。
と、こういう書き出し。
当然上記リードは否定を前提にしている。
演劇が芸術になった例はない、と。

竹中労の有名な言葉だ。
「弱いから群れるんじゃない。群れるから弱いんだ」

その通りだ。
群れるということと、何かを創り出す仲間という関係は、ニュアンスが違うようで案外同じだ。
世の中にある劇団という劇団は、ただ群れているだけではないか。
上演される作品という作品は、ただ群れた結果ではないか。
帝国劇場でどんなスターが舞台にあがっても、それは有象無象の群れの果てではないか。
高い理念を持って集る若き俳優たちも実は、群れたいだけではないのか。

芸術は強くて優しい。
とてもあたたかい手をしている。

これは、断言だ。なぜ断言できるか。俺は、芸術って奴に会ったことがある。
そして、それを芸術自身の口から聞いた。
竹中労の一言に対して、ノンを突きつける人もいるだろう。
「俺たちには一人ひとりには力が無い。あまりに無力だ。
だからそんな無力な個人が集って、何かを変えたいんだ。何かを為したいんだ」と。
無力は、どれだけ集っても無力だ。0×0の答えを知ってるだろう。
と、言葉の上で混ぜっ返してみても始まらない。

「無力じゃない。俺たち一人ひとりには、少しの力がある。
その少しの力を集めて、何かそれ以上の大きさや質量を持つ何か、を」と。
なるほど。個人以上の何かか。まあ、何か、と言ってる時点で何も出来ないことは目に見えている。
と、また言葉の上での混ぜっ返し。

「そうじゃない。はっきりとしたビジョンがある。
俺たち一人ひとりのこの小さな力を結集して政治を変えるんだ」
「俺たち一人ひとりの少しの力を合せて芸術を創るんだ」
まあ、なんでもいい。これまでそんな例がないにも関わらずそう叫ぶのはわかる。
前例がなければ語ることはできないというものでもない。
前例がないから叫ぶという例もあるし、その美学は案外と日本人好みだし。

弱いだけだ。

「じゃあ、これまでの世界で民衆が力を合せて立ち上がった革命はどうだ。
歴史が変わったはずだ。政体が変わったはずだ。国が変わったはずだ」か。
なるほど。けれども、そんな例はない。
世界史に刻まれるいくつかの大きな革命は、力のある個人が変えたんだ。
民衆が立ち上がった? 民衆は、夢を見ただけだ。そして、演劇。

演劇もぼんやりと夢を見ている。
夢を見させている「個人」のせいだ。

弱いから群れる、群れるから弱い。なるほど。
演劇は、一人ではできない。そんな声が聞こえる。
劇作家がいて、演出家がいて、俳優がいて、音楽や光がいて、観客がいて、
そして、現代演劇には、制作がいて、製作がいて、金がいて、ほうぼうの声がいて、
「演劇はそんな力が合さって創られる総合芸術だ」と。
力の入った宣言だ。素晴らしい。その通りだ。でも、

演劇自身はぼんやり夢の中。

では何故劇団なんだ。お前も弱いから群れてるんじゃないのか。
そして、群れて群れたお前が弱いんじゃないのか。進められる論点からの当然の問い。

俺の居る劇団再生は、個人だ。そもそも団体ではない。群れては居ない。
俺の在る劇団再生は、一人だ。そもそも集団ではない。群れては居ない。
どうだ。このロジック。
人が複数いれば、それは必ず集団だ。
ある一つの目的を持って人が集れば、それは必ず団体だ。なるほど、それはそうだ。
けれども、今俺はここでそんな形而下の話をしてるんじゃない。
誰もいなくなっても劇団再生は具体的に存続しているのか。
「具体的に」という一言が曲者だけれども、答えは、「存続している」
なぜなら、劇団再生は、止揚された一人格だからだ。
止揚される前段階は、当然名前を持った一人ひとりの劇団員であり、
劇団再生という団体であり、彼等の生活であり、日々の活動であり、積み重ねられる稽古であり、
金や作品や上演という細々であり、そんな対立物の合の場所が劇団再生の一人格だ。

正劇団再生があり、反劇団再生があり、そして合劇団再生だ。
合に到れば当然、また反があらわれる。反・合劇団再生だ。行き着く先は、常に反が着く場所。
反・合合合合合劇団再生。何処までも続く「合」

芸術か。

そんな個人のものをよく演劇に付帯させたものだ。
そんなに芸術という冠が欲しかったのか。
演劇は芸術になりたかったんじゃない。
演劇を芸術だと対外的にくっつけやがった先人の罪は大きい。
ここ最近、とはいっても何十年、演劇一人夢の中。ひざを抱えて夢の中。
演劇のひざの裏を引きずり出せ。演劇自身もひざの裏を見せてたくてうずうずしている。
証拠? 演劇が自分でそう言ってたんだ。

それを自白させたのは、つい最近。
芸術に会った? またお前の妄想か。もう一人のお前とのおしゃべりなんか聞く価値も無い。
芸術と話した? いつもの口からでまかせか。
自白させた? バカもたいがいにしろ。

いいだろう。

いずれわかる。

『永続革命論』トロツキー