『北一輝―国家と進化』『「昭和」をつくった男』『変身』『カフカ寓話集』
2010年6月3日 21:17:46
雨の音で目を覚ました。
なんだ、天気予報は外れたな。最近では珍しい。
確か昨日の予報では、晴天予報だった。雨か。
レースのカーテン越しに外を見ると、いい天気だ。快晴じゃないか。
でも雨の音はしている。確かに雨の音だ。
耳鳴りなのか、幻聴なのか、定かではないけれども、覚め際の耳の雨。
まあいいか、と朝っぱらかDVDをセットする。
『太陽がいっぱい』
耳の雨は、あの名曲に流れていった。
いい映画だ。何度観ても見飽きるということが、ない。
北一輝を鞄に入れて、8月の佐渡を思う。
『北一輝―国家と進化』嘉戸一将
『「昭和」をつくった男』小林英夫
『変身』カフカ
『カフカ寓話集』カフカ
北一輝の転回を思う。
転回、転向、と言われる。
が、果たして本当にそうだったんだろうか。
北一輝の著作は、精読した。熟読した。
『国体論及び純正社会主義』
『支那革命外史』
『国家改造案原理大綱』
『日本改造法案大綱』
その他、論文、詩歌、書簡。
みすず書房の『北一輝著作集』だ。
読み込めば読み込むほど、転向・転回と思えない。
多くの論者の著作も読んだ。
渡辺京二、村上一郎、松本清張、松本健一、別役実、古谷綱正、豊田穣、田中惣五郎・・・
思いつくだけでもたくさんの論文。
それぞれの論点でそれぞれの観点。どの論も発表されるべきだった、と思う。
そして、それらを読んだ自分は、
果たしてそうか、と今、思う。
北一輝を考えるとき、やっぱりどうしても自分のフィールド演劇を考える。
演劇の歴史、演劇の役目、演劇の使命、演劇の未来、演劇の命、演劇の、演劇の、演劇の、と。
演劇は、その創造性や作品性において、否定されることはなかった。
その方法、演劇と人間という関係においては、
もちろんさまざまな否定的意見が提出もされてきた。
けれども、演劇それ自身が否定されることは、なかった。
それが、現在の演劇だ。
演劇は、甘やかされて過保護に保護され、なまぬるい温室で、育った。
だから、だ。
見ろ、今を。
甘えて育った奴の傲慢が嫌らしくその顔に張り付いているじゃないか。
見ろ、演劇のあの顔。
否定しなければならない。
徹底的に否定しなければならない。
その息の根ぎりぎりまでを完全にそして論理的に解剖しなければならない。
脚本を書くという構築された方法論を捨て、
演出を捨て、
演劇を構成する要素も再考されるべきだ。
演劇という表現そのものを否定しなければならない。
今、誰も彼もがそれらを保存しようとしている。
それら全ての手段や目的や方法を必死に守ろうとしている。
そこから何も生まれないことがわからないのか。
演劇は止揚されなければならない。
なぜなら、演劇自身がその本能からそうされたがっているからだ。
甘えて育った傲慢の顔に時折のぞく、
あの寂しそうな顔。
あの顔を見れば、そうしなきゃいけないんだ。
耳の奥に雨が降る。
『太陽がいっぱい』が流れ続け、耳の奥に雨が降る。