アントナン・アルトー
2015年12月13日 21:19:17
読書と日本のアルトー
「高木は日本のアルトーだ」と、そんな評を頂いたことがある。
全作家協会の陽羅義光さんに、だ。
恐れ多いにも程がある話だが、その時(もう数年前だが)、アルトー熱が上昇した。
ぼくのどこがアルトーなんだろうと、手に入るアルトーの作品や、アルトー自身に関する本を漁った。
陽羅さんがそこで書かれているのだが、「年間1千冊の読書」は、かつて一度も達成したことはない。
これまでの最高は、年間500数冊だ。1000冊とは倍の開きがある。
どこでどう1000冊が伝わったのか、今となってはどうでもいい。
500冊も1000冊も同じようなもんだ、と言ってしまえば、それもそうだ。
アルトーだ。
アントナン・アルトー
何十年も心のどこか片隅でその存在を感じ続けてきたアルトー。
同時に何十年も関わりになることを避けてきたアルトー。
過去にぼくの作品の中にアルトー的概念や、アルトーの言葉や、そのエッセンスを取り入れたこともある。
けれども、当時はとても消化することはできなかった。
そもそもアルトーは、日本人には理解しがたい文脈でしか構成せず、
その理解しがたいアルトー的文脈は、日本人の遺伝子的文脈とぴたり対論として一致するのだ。
ウィキペディアでは、アルトーは、こう説明されている。
アルトー的文脈と日本人の遺伝子的文脈
「私の身体は私のものである、人にそれを好きなようにしてもらいたくはない。
私の精神のなかには多くのものが流れている、
私の身体のなかには私以外のものは何も流れてはいない」
「忌まわしい生存のあいだに、私は多くのものを捨てました。
私はとうとうすべてを捨てたのです、まさに『存在』という観念にいたるまで。
私は『非存在』を探し求めることによって、神が何であるかを再び発見しました。
だから私が神について語るのは、生きるためではなく、死ぬためなのです」
ああ、そう書くしかなかったのか、と一抹の寂しさを感じさせる一文。
絶望? そうじゃない。だからと言って、希望というわけでもない。
神と存在、肉体と精神
日本人にとってとても苦手な観念構造だ。
対論と書いたのは、だから、であって、例えば、こんな置き換えで、「この読書」は終えられるだろうか。
神を天皇に、存在を私自身に、置き換えてみる。
どうだろう。あまりのステレオタイプの枠組みに組み込まれてしまうではないか。
その枠組みは、小さな島国を鳥瞰するようではないか。
読書にいいも悪いもないのだが
いい本というのはたくさんある。
悪い本(と言うか、どうでもいい本)というのも、たくさんある。
時間に制限がないのであれば、片っ端から読んでいけばいいのだが、あるのだ。制限が。
死ぬまでにあと何冊の本が読めるだろう?
年間400冊、あと20年。たった8000冊だ。
今、日本では年間7万冊の本が出版されているというのに、だ。
読んでおかなければならない本、というのが確かにある。
100冊くらいは、簡単にあげることができるだろう。
あなたに合った100冊を選ぶこともできる。
何でも読めばいいというものでもない。
危険な本がある。厄介な本がある。近寄り難い本がある。避けたい本がある。
読書にいいも悪いもないのだが、アマチュアがそんな本に触れると人生を間違えてしまう。
アルトーと出会い、本と出会い、言葉と出会う
アルトーは、叫ぶのだ。
「いかなる創造もひとつの戦争行為である。
自然に対する、生に対する、運命に対する、死に対する戦争」
演劇はペストであり、ペストは戦争である、というアントナン・アルトー。
その人生において、やることなすことが上手くいかず、アルトーの上演は失敗の連続の中から、アルトーを読み解く。
身体は常に内乱状態にある、とアルトーが言うとき、真に言葉の戦争が始まるのだ。
グノーシス的な。
それにしても、読んでなければ話にならない、そんな本がある。
以前、そんな一冊として『異邦人』を取り上げた。
思いつくだけで100冊くらいはすぐにあげられるだろう。
人間失格、斜陽、砂の女、罪と罰、カラマーゾフの兄弟、車輪の下、三四郎、コインロッカー、一握の砂、羅生門、告白、パンセ、金閣寺、悲の器、百年の孤独
読んでないじゃ、お話にならないのですよ。
そして、アルトーだが、
読んでないじゃお話にならない、そんな本じゃない。
読まずに終えられるのなら、それに越したことはない、そんな本だ。寺山さん以上の危険を感じる、本。