『読書考』2・・・ちっちゃい頃から読んで読んで

2007年12月16日 22:59:09

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生まれて初めて独力で読んだ本、
それを、覚えてはいない。
何だったのだろう。

ちっちゃい頃から本を読んでいて、
その座り込んで本を読んでいる自分を
そばからジッと見ている自分を覚えている。

実家を建て替える前の古いキッチンで
石油ストーブの上のヤカンがシューシューうなる横で
本を読んでいる小学生の自分。
それを隣の居間から見ている同時代の自分。

従兄弟の家の従兄弟の部屋で
そこにあった本をいつまでもいつまでも読んでいた自分。
それを、見続けていたやはり同年代の自分。

部室に座り込み、陽が落ちて真っ暗になっても
電気をつけることすら面倒で読み続けていた自分。
それを、隣に座って眺めている演劇部の自分。

「ご飯よ!」と声をかけられて、
読書を中断できずに「おなかが痛い」と仮病を使って
布団の中で読み続けた自分、を机に座って見続けていた自分。

確かにちっちゃい時から本を読んできたことは覚えている。
町に一軒しかない書店兼文房具店兼雑貨屋兼ちょっとおもちゃ屋の
棚に並んだ文庫本を順番に読んでいった。
高校を終えるまでに新潮文庫と角川文庫は全て読んだ。

時代時代で好みや嗜好があった事も覚えている。
小学生の頃は、冒険物語や推理小説が大好きだった。
物語性の振幅が激しいものが読みやすかったのだろう。
シャーロックホームズは大好きだった。
江戸川乱歩もこっそりと読んだ。
松本清張もどきどきした。

小学生の終わりから中学生にかけて海外と太宰治にいった。
ドストエフスキー、トルストイ、カフカ、カミュ、
トーマス・マン、そして三国志、史記。
小学6年生の夏休みの宿題に『罪と罰』を書き、
「自分には、どうしてもキリスト教的道徳がわからないので、
ドストエフスキーの罪の意識を完全に理解することは出来ません。」
という論点で読書感想文を書いた覚えがある。
中学生の頃、「人間失格」で描かれる『罪と罰』を
『第三の人間失格』というタイトルで小説みたいなものを書いてみた。

高校にはいると、嗜好は哲学とか政治とかに向かい、
埴谷雄高の「死霊」にはまった。
それは、まさに「すっぽりと」はまったという感じだった。
それとともにドストエフスキー熱が再燃したのも高校生。

ちっちゃい頃から本が好きだったのかなあ。
好き、という感覚はあまりなかった気がする。
読まずにいられない、という感じか。

これまで何冊の本を読んだのだろう。
20歳まではカウントしてこなかったなあ。
20代と30代の20年で5000冊ちょっと。
20歳までに1500冊くらいか。
あわせて、これまでに6500冊。
まあ、そんなもんか。

明日、死ぬかもしれない。
そしたら、その数字もそこまで。
目の前にあるわくさくどきどきの山脈は登れない。

あと、100年生きるかもしれない。
そうしたら、まだまだ何千冊も読めるだろう。

ちっちゃい頃の読書、
読書をする自分を見ているもう一人の同時代の自分。
あれは、一体どういう感覚なのだろうか。
今でもありありと思い返すことができる。
両者の気持ち。

「あっ、また俺が見てるよ。
本を読み始めるといつも俺が隣で見てる」

「いつまで読むんだ。もう暗いじゃないか。
電気をつけたらいいじゃないか。」

「いつまで俺を見てるんだ。
本が読みたいんだ。ほっといてくれ。」

「その本は面白いのか。」

読む自分とそれを見る自分の両者の意識を
いまでもはっきりと感じることができる。