『現代日本論』【戦後日本思想大系15】編集・解説_久野収
2007年12月22日 01:16:34
疲れが溜まる、と言う。
まさにそんな感じ。
毎日仕事をし、
毎晩あちこちの忘年会に顔を出し、
沢山の人と会い、
愛想笑いをすることもあれば、
議論を吹っかけられたり、
新たな約束を鬱陶しく思ったり、
単純に睡眠時間が足らないのか、
疲れが日毎、溜まっていくことを体感している。
こうなると、防衛本能からだろう。
自身の体から、
自身の心から、
一本ずつケーブルを抜いていく。
メモリを無駄に消費しないように、
リソースを節約するために、
省電力化のために、
放熱のための騒音を抑えるために、
外付けのハードディスクを抜き、
プリンタを抜き、
キーボードを抜き、
そうそう、フラッシュメモリを抜き、
と、一本ずつ抜いていく。
残るは、この体一つ。
この心一つ。
いつか、目覚めることのない眠りを眠れるまで、
あと一息だ、と、
溜まっていく疲れをやり過ごす。
『現代日本論』【戦後日本思想大系15】
編集・解説_久野収
読書プロジェクト・コード名「鈴木邦男」
その第一弾「戦後日本思想大系」全16巻。
15巻を読了。
「現代日本論」というタイトル。
このシリーズ「戦後日本思想大系」全体が、
<現代><日本>論であり、
この第15巻は、これまでの14巻の総括という印象。
収録されている方々もすでにおなじみに方が多い。
それよりも、
<現代>をどう定義するか、ということが
大問題ではないかと、感じた。
<現代>を単純に時間の区切りと定義すれば、
全ては、時局的な論となり、
そこに普遍性が誕生することは難しいはずだ。
本書には、見事な普遍が息づいている。
だから、発刊数十年を経ても、
こうしてどきどきするのだ。
では、<現代>に時間の区切りとある種の思想を含めるのか。
そうすれば、区切られた時間の中でも、
過去と未来を取り扱え、普遍<的>な論点を持ちえるだろう。
しかし、それでは、関係性が失われるだろう。
<現代>をどう定義するのか。
それこそが、本書のテーマなのではないか。
<現代>をさまざまな角度から追い求め、
考え続け、語りつくした本書。
それゆえに、普遍性が生まれたのではないか。
時代を超えても<現代>は超えない、という論証。
それをまざまざと見せ付けてくれている。
編集・久野収
対談「現代日本論の系譜」久野収・高畠通敏
「裸の日本人(抄)」佐藤忠男
「公と私―義理と人情―」有賀喜左衛門
「タテ社会の人間関係(抄)」中根千枝
「文明の生態史観序説」梅棹忠夫
「日本人の思想的態度」福田恆存
「天皇制の倫理・共同体の倫理」日高六郎
「コスモポリタンは何に忠誠(ロワイヨーテ)を持つか」きだみのる
「無人境のコスモポリタン」林達夫
「罪と罰」花田清輝
「敗戦前後の日本」久野収
「”平均的人類”の願い」小松左京
対論「日本脱出」五木寛之・野坂昭如
「いま運動に何が問われているか」高畠通敏
「心の中を回る日本(イルポン)について」呉林俊
共同討議「現代とは何か」
・・・上原専禄・鈴木成高・竹山道雄・林健太郎・丸山真男・務台理作