『読書考』3・・・書店の寂しさと、やはりあの一言
2007年12月22日 23:27:41
今年の読書量は、
240冊から250冊の間くらいで終えそうな情勢。
年初に漠然と目標した300冊には到達できそうもない。
9月に『見沢知廉3回忌追悼公演』を行い、
そのために夏の2ヶ月間を稽古に費やした。
その期間の読書量が、
やはり、少ない。
『読書考』とタイトルをつけて、
そのために、書こう、と。
書くために、『読書』を考える。
『読書』とは、何か。
行為としては、
「本を読む」ということでしかないのだが。
だが、違う!
そうではない。
『読書』って、そうじゃないんだ!
そこから思考実験が始まり、
今も終わることがない。
コーヒーを入れて、
仕事の合間に、
(あれ・・・どこまで考えたんだっけ・・・)
と考え始める。
座って、机にひじをつき、
あごを手で支え、
考え始める。
『読書』って一体何なんだ。
さて、どこまで考えたか、ぼちぼちと。
そうそう、本の定義から入ったんだ。
『本』って何だ?
まあ、書物だ。書籍という言い方もある。
それに、台本や脚本も、『本』だろう。
名詞としての『本』だと、
他に、お手本も『本』。
模範となるようなことも『本』だろうし、
大本も『本』、もとになることも『本』だ。
本当のことも『本』だし、
主たる要因も『本』。
真実も『本』
ありゃりゃ・・・
そうなんだよね。
『本』って、そうなんだよ。
しかし、『読書』につなげようとしている思考実験。
「書物」「書籍」を元に定義するしかないんだよね。
書物か。
と、あきれてしまう。
書物は書物でしかない。
物体。
固体。
でも、こうやって一冊の本をてにすると、
書物は、物体を超えているのがわかる。
それは、もち手の感情や想念なんだろうけれども、
だとすると、
書物の定義は、個々人の数だけあるということになる。
そうだとすると、
それは、もはや定義では、ない。
『本』それ自体を定義することができるだろうか。
『本』が定義できなければ、
『読書』を分かるわけがない。
楽しいから、考える。
個人を超えた『本』の定義。
言葉も国境も歴史も越えた『本』という完全な意味。
写真は、鈴木邦男さんと。
この写真の日、
「鈴木さん、本を読むってどういうことですか」と質問した。
鈴木邦男さんは、
一息で答えた。
質問から答えの間の時間は、一秒もなかっただろう。
まさに即答だった。
今日もその鈴木邦男さんの答えを考え続けていた。
このまま、思考実験を続けていくと、
鈴木邦男さんの結論にたどり着くのか、
或は、
全く別の結論が導き出されるのか、
それは、
わからない。
鈴木邦男さんのあの答えは、
確かに自分の目を開かせた。
「そうだ!」と思った。
でも、
あと何かが、ぽとり、と落ちない。
あと一つの何か。
それが分かれば、この思考実験も一気に加速するだろう。
そのあと一つは、見えているのだけれども、
対応する言葉がない。
その「あと一つ」に対応する単語。
鈴木邦男さんは、知っているのかもしれない。
知らないのかもしれない。
そのどちらかだろう。
今の、この思考実験を一つの結論と共に終えたとき、
そして、
いつか、誰かに、
「高木さん、毎日本を読んでますけど、
本を読むってどういうことですか」と、
と、問われたら、
躊躇なく答えられるだろうか。