『読書考』4・・・本を読むことスパイラル

2007年12月26日 00:02:57

写真

(写真は意味もなく、ある日の忘年会)

朝っぱらから十数時間も数台のパソコンと向き合い、
新聞を作っていた。
一文字一文字確認しながら、全体のバランスを感じながら、
その新聞が何かを伝えるとはどういうことかを考えながら、
言葉と向き合っていた。

人の原稿を扱いながら、
その人がそれを書いている、ということを思う。

夕方、少しずつ完成形が見え始めたところで一服。
目の前には、膨大な量の本。
言葉が回り始める。

読書経験値サーバ・・・コード名・・・読書・・・
・・・本を読むということ・・・人類の脳・・・『鈴木邦男』・・・
読むことから書くことへの化学変化・・・

以前にも紹介した『コンブ日記』
今日の記事は、『読む観念が伝染する』
『コンブ日記』を書いているコンブさん。
この記事も論点がはっきりしていて、
展開の妙は美しく、いつ読んでも「ほう」と唸ってしまうのですが、

さて、今日の記事。
これは、問題。

まずは、一読。

読み終えて、考え、もう一度読もう、と思ったけれど、
もう一度読むと、思考の道筋がぶれると危ぶみ、
これを書き始めた。

>「あのさー。パソコンだと、<読む>っていうより、<見る>じゃないの?」
>「いや、読んでますよ。普通に」
>「でも、パソコンじゃ、線引けないし、付箋貼れないし。それって読むっていうの?」

そう!その通り。
普段、自分が線を引きつつ、ページを折りつつ、付箋を貼りつつ
だから、その行為自体を口にすることはないけれども、
その行為と「自己」のリンクが「読む」ということの始まり。

で、コンブさんは、次の問題を提起。
そも、「見る」とは何か、と。

>「見る」が、まるでなんにも考えてないみたいな。
>「見る」は「見る」なりに、得るものがあるのに……。
>ああ、でも、「見る」に適したもの、「読む」に適したもの、
>それぞれあるんだから、やっぱり、本に限っては、
>「読む」が最上級だよなあ。

「見る」は、『存在を視覚に捉えること』。
なかでも、「捉える」が大切な動き。
じゃあ、「読む」は?
その「捉えて」からの心の有り様が「読む」というものに含まれている。
「心の有り様」って?
自分が生きてきた時間とか、
思い出せない記憶とか、
思い出せる思い出とか、
明日起きる時間を確認することとか、
財布の中身を心配することとか、
両親の出会いとか、
そのまた両親のいとおしさとか、
一服の煙草のけむりとか、
例えば、そんなものが、「見て」から始まるわけで、

その「心の有り様」を自己認識するのに
線を引いたり、ページを折ったり、付箋を貼ったり。

そこまでは、説明できるし、体でわかっている。
分かっているから、どうとでも操ることが出来る。
「本を読まないように読むこと」も
「本を見ながら読むこと」も
「心を止めて『読む』こと」も
「心だけを走らせて『見る』こと」も
それは、簡単な話。

でも、それが、「本当に本当の本を読むこと」の本当だとは、

感じられない。

そう、感じられないんだ。
ああ、論点がずれたな・・・

>パソコンは、「見る」ですか? 「読む」ですか?

パソコンは、「ただ在る」かな。
答えになってないかな。
「見る」か「読む」か、どちらかと問われているならば、
「見る」だ。
でも、やはり「見る」とは言えないなあ。
やっぱり、パソコンに書かれて表示されているものは、
「在る」だ。

>そもそも、見ると読むの価値ってどう違うんですか?

「見る」と「読む」に価値を求めているならば、
両者ともそうは違わない気がする。
「価値」は、そも「存在」するものではなくて、与えるもの。
「見る」に「読む」以上の価値を与えれば、
「見る」は「読む」以上の価値になるし、
逆もまたそうでしょう。

価値を求めていないならば、
心一つで違いがあるし、
心一つで、違いもなくなる。

>「所有する」ってこと自体が、案外大きいのかもしれないなあ。
>もしかすると、所有することから「読む」が始まるのでしょうか。
>人に借りたり、図書館で借りた本は、
>読むというより、見るの部類なのでしょうか。

あっ!そうそう!それはそう!
自分は、自分が所有する本しか読めない。
それは、全く読めない。
そもそも、読まない。
だからといって、コンブさんが主張するように、
借り物だからといって、「見る」と「読む」が入れ替わったりもしないけど。
でも、借りて読めないのがわかっているから、
借りたりしないな。

本は、どんなところからお金を借りてでも買う!
本は、家賃が払えなくても、買う!
買うべきときに買わないと、次はない!
本を買うために働く!

それが正しい姿。

さて、読書考とタイトルをつけて、
ぼちぼちと書き続け。
ぐるぐると考え続け、一つの結論に到達しそうな予感を感じる。

あの日、鈴木邦男さんが答えた答えが、
ありありとわかる。
まずは、ここまできた、そんな感じだ。