『読書考』6・・・読書中毒活字中毒
2008年1月12日 20:46:47
(写真は本文とあまり関係がなく、見沢知廉さんのお墓で新年の挨拶)
「活字中毒なんですね」
と良く言われる。
本の話をしたり、
普段の生活の話をしたりすると、
そう言われる。
「中毒」か。
と、考える。
安易に「中毒」という言葉を使いすぎるきらいがある気もするけど、
それは、受験戦争、交通戦争、価格戦争という「戦争」と同じなのかな。
戦争という真の具体から抽象概念を削り取り、他の具体に移植。
戦争という真の命のやり取りを他に移植することによって、
他を強調していく、というありふれた手段。
戦争という語感が負の感情を喚起させていた時代のマス的戦略。
時代は変わっていく。
戦争という語感に、今は、何を感じるのだろうか。
十代の人は何を思うだろうか。
完全な真の負を心から感じるだろうか。
我が事に移入できるだろうか。
「戦争」という言葉が失われていく気がする。
そうか、「中毒」だった。
同じような使われ方をしている感のある「中毒」。
けれど、「戦争」と決定的な違い。
戦争は団体戦であり、思想の一つ。
中毒は個人戦であり、肉体の一つ。
「ニコチン中毒」「アルコール中毒」「コカイン中毒」
個人体への負の干渉。
どれもこれも、それらが体内から排出されると
数時間で摂取したくなる、中毒。
摂取しなければ、肉体や精神に影響がでてくる。
禁断症状。
「活字中毒」もおんなじ。
なんでもいい、活字を見て、読んでいないと、
禁断症状が出てくる。
いらいらする。
攻撃的になる。
戦闘的になる。
ぐれる。
食欲がなくなる。
おかしな夢を見る。
独り言が多くなる。
と、いろんな症状がでてくる。
そんな自分がこれまでの経験でわかっているので、
起きているときには、常に活字を追う。
車を運転していても、交差点の名前や、
電信柱についている住居表示、方角看板の文字を執拗に追う。
歩いていても、上を見上げビルの看板を一つずつ読み、
マンションの名前に通りすがる車のナンバーに、
店の名前、すれ違う人の服に書かれている文字を読む。
電車の中では中吊り広告を読み続け、
自分が乗った周辺の広告を読み終えると、
ぶらぶらと電車の中を移動しながら読む。
満員電車の何が嫌かというと、
他人との過度の接触よりも、
中吊りを読み終えたときに自由に移動できないということ。
東京は、その点でよい街。
どこにいても、どこを歩いても、活字がある。
先日、茨城のある農村に行った。
そこには、土と緑と空気が充満し、
見渡しても活字が一字も見当たらない。
途方にくれた。
そんな生活でなんとか、精神の均衡を保ちつつ。
けれども、弊害があるには、ある。
活字を読みながら、歩いていると、
歩道においてある看板にぶつかり、手の小指を骨折する。
電信柱にぶつかり、サングラスが壊れる。
人との接触で喧嘩になる。
と、肉体に多少影響があるけれども、
精神の均衡は保たれる。
活字を追うことと、
「読書」は、決定的に違うけれども。