脚本を書いている
2008年9月24日 23:48:43
脚本を書いている。ほとんど脚本を書いている。
原稿用紙に万年筆で書いたものを劇団員あべあゆみに手渡す。
数時間後には、ワードに入力されてデータとして戻ってくる。
脚本が書きあがるまで、毎週それを繰り返す。
何度も何度も読み直す。
書いたものを何度も読み直す。書いた枚数が増えていくと、
書いている時間よりも、読み直している時間の方が多くなっていく。
圧倒的に読み直し、校正している時間が多くなる。
大幅に直すこともあれば、一文字を考えることもある。
阿佐ヶ谷ロフトという空間が目の前にあり、
頭の中に何万枚もの絵画がある。
それを、書いている。
今回は、その画を素直にまっすぐに書こうと決めた。
書き始めるときに、そう決めた。
これまで書いてきた20本以上の脚本。それを思う。
脚本には、一定のルールがある。スポーツや生活と同じようにルールがある。
演じる者たちへのテキストとしてのルール。
実際に現場に携わるスタッフへのルール。
きちんとそれにのっとって書くべきだ。その方が効率がいい。それは間違いない。
脚本教室でも最初にそれを教えているのだと思う。
この脚本「スーザンナ・マルガレータ・ブラント」には、
書き始める前に見えたあの画があった。
頭の中にあるたくさんの画。
それを全て、ルールにのっとって脚本化することがきっと理想なのだろう。
けれども、その技術を知らない。
それが方法なのか技術なのか、それもわからない。
ルールにのって書いたほうが、楽だ。そりゃそうだ。
そう思って、ルールに乗せようとすると、あの画が再現できないことが、
書き始める前からわかっていた。
これまで書いた作品なんか、なんのサンプルにもならない。
これまで執筆に費やした時間なんか、なんのサンプルにもならない。
いつの間にか陥っていく自己模倣。
一番嫌いな自分を真似すること。
安心とか、安定とか、楽だとか、そりゃこれまでの自分を真似すればそうだろう。
楽に書ける。安定して書ける。自己模倣。
何も産み出さない自己模倣。
書くことに限らず、どんな分野にでもしのんでいるその落とし穴。
頭に見えていることだけを信じよう。
過去の方法論よりも未来の五里霧中を愛そう。
他者の参加を拒む。自分だけの決定。
ただ、書いている。
じたばたしながら書いている。
できれば書きたくなかった。
できれば俳優の頭にテレパシーで直接伝えたかった。
できれば俳優の脳にケーブルをつないで転送したかった。
できればこの何万もの文字を一言で言い得たかった。
できれば俳優と目を合わせるだけで伝えたかった。
そうできない自分が居ることを知っていて、じたばたじたばた。ばたばた。