高木ごっこ・・・523-99『どこまで考えりゃ気が済むんだ。言葉の本来を考える。言葉の本質を考える。言葉がなんなのか考える。と考えているこれも言葉。一体どうすりゃいいんだ』
2008年12月16日 22:22:42
先日、野村秋介さんのお墓参りにいった。
「恋地蔵」がいた。そして、「闘い地蔵」がいた。
墓前で見えた一つのイメージ。
あまりにも大きすぎて、頭の中に具体化せずにほっておいた。
劇団再生の次の公演が決まった。
タイトルを決めた。
持論を突破し、自分でタイトルをつけた。
鈴木さんとのトーク演題も決めた。
決めた途端、あの大きな一枚のイメージが重なった。
重なったからと言って、書けるわけでもない。
できれば、半年くらいはこのイメージを考えていたい。
でも、そうもいかない。
約束された日がある。
それにしても、いつからこんなに言葉と関わるようになったのかな。
言葉と関わることの不健康と不良性をわかっていても
考える。
言葉中毒末期。
眉間にしわを寄せて考える。
一つ一つの言葉を敵に回していく夜は今日。
野村さんの墓前で見えた一枚のイメージ。
可視化される言葉。それを表すことができるか。
それに挑戦した演劇人はたくさんいた。
寺山修司もその一人。
とてもわかりやすい形で言葉を可視化して見せた。
野田秀樹もそうだ。
野田さんは寺山さんよりおしゃれにそれをした。
しかしそれが全ての観客に伝わったかどうか。
寺山さんの手法は、ほぼ全ての観客にわかるだろう。
野村さんの墓前で見たあの画は、確かに言葉だった。
そして、確かにそれを、見た。
これこそが、言葉の可視化だと思った。
言葉の連なりである小説という表現をもって、映像を越えようとして成功した小説家もいる。
丸山健治がその代表だ。
彼の小説は、まさに可視化言語。
お墓の横を流れる日向川の音が、見えた。
歌碑に刻まれている野村さんの魂が、聞こえた。
恋地蔵は、静かに。
言葉を考え続けていたら、ここにいた。
木の上だ。高い木の上に猿みたいに腰掛けて、足をぶらぶらさせている。
一人で登ってしまった。一人。下を見たら、人が歩いている。
降りようかな、と思う。うーん、と考える。
うーん、と考えるのも言葉なんだなあ、とまた考える。
また考え始めたよ、と思うこともまた言葉じゃん、と考える。
と、考えることも、と考える。
あの下に下りている暇がない。
残された時間は、何時間だろう。
あと、何時間考えていられるだろう。
10年はいけるか。いや、そんなことはないかもしれない。
数年か。数年あれば、もうちょっと次の考えるにかんがえられるかもしれない。
言葉の何を考えているんだ、と言われた。
小さな高木に言われた。
ん?言葉の何を?分かりきったこと。
言葉がなんなのか、言葉ってなんなのか。
そんなのどうでもいいじゃん。
言葉は言葉だよ。伝わればいいんだよ、と世間に言われた。
それもまた、うん、そうなんだよ、と答える。
答えざるを得ない。
だって、反論する言葉を持っていない。
心の中で、でもさ、と小さく反論しながら考える。
木の上に一人。
理解者が欲しい。
恋地蔵が静かにいた。
言葉をかけることが躊躇われるほど、静かにいた。
時間がたらないな。
あと300年くらいあればなんとかなる気がするのに。