本を読み続け、書いては破り書いては破り原稿用紙。
2009年1月1日 23:44:49
先日、劇団再生の忘年会があった。
劇団員とお世話になっているスタッフの方々。そして、店のマスター。
雨の忘年会から始まった劇団再生だ。
年末という概念が大嫌いにも関わらず、劇団再生の忘年会は大切だな、と思う。
一日中本ばかり読んで、
あちこちの段ボールをひっくり返して、読まなければならない本を積み上げた。
ここ数日頭をかすめている数行の言葉を探していた。
一体どの本にあったのか、
読まなければならない本を積み上げながら、
その数行を探した。
見つからなかった。一体何の本だったのかな。
雰囲気として、埴谷雄高かドストエフスキーか、と思っていたけれど、違ったよう。
ならば、ゲーテかニーチェか。違うみたい。
キェルケゴール?大江か?公房?探してみたが、ない。
もしや、思想大系のどこかか?それはない。
思想大系からの言葉はデータベースに抜き出してある。
北、大川あたりではない。
太宰では間違いなく、ない。谷崎が書きそうな言葉でもない。
うーん、どこだ?
忘年会で一人の劇団員の顔を見ていて、その言葉を思い出した。
その数行をそのまま書いたら実も蓋もないが、
モチーフとテーマをつなぐ一行にはなりうると感じた。
忘年会から始まった劇団再生。
何かと何かをつなぐ一人ひとりの声、言葉、表情。
劇団員が動き、語ることの一つ一つが「それが演劇なんだよ」と
そう思いながら、迫る頭痛を無視し続けた。
先日、脚本評をいただいた。
地方在住の劇作家であり、演出家の方だ。
ぼくよりも随分と年上の大先輩だ。
劇団再生の舞台をいつも観に来ていただいている。
「上京当日は、海が荒れそうだから、
もしかしたら伺えないかもしれませんが、一応予約します」
と、本番前にメールを頂いた。
当日、会場でお会いできた。
ニコニコと握手をして、終演後たくさんの話をさせていただいた。
劇評ではなく、脚本評をいただいた。
思索の過程がそのまま台本になり、
台詞と詩と思想のエクリチュールが舞台として生きられることの驚き。
(『荒野』を読んだときには
「どうやってこれを舞台化するんだろう?」と心配したものですが・・・)
アバンギャルドはスタイルにこそ宿ると
舞台ともども改めて納得。
『スーザンナ・マルガレータ・ブラント』は、
近世ヨーロッパの世相風俗そして権力構造を
シンボリックに描き込んだフレスコ画のよう。
「私は幕の区切りのない芝居を書こうとした。(中略)
せっかく催眠術師である劇作家が、
観客を舞台の幻影の中に惹きこんでいるのに、
休憩時間は彼らをその幻影から覚ましてしまうからである」
とストリンドベリは言っているが
高木さんの芝居にはそれ以上のものがあるように思う。
「わかり易さ」のために真実を犠牲にするという倒錯に抗い、
かつ明快であらんとするポップな宗教画的構成、これである。
ならば
『天皇ごっこ』に感じたあの神聖さは、
幼いイエスを慈しむ聖母マリアのものでもあったか。
『罪と罰』も同様と腑に落ちた。
愛すべきマルガレータの残酷な運命へのまなざし。
ゲーテの『ファウスト』にそれは刻まれた。
無数のマルガレータたちの受難は今日も。
だからこそ
二十一世紀の阿佐ヶ谷ロフトに
『スーザンナ・マリガレータ・ブラント』は
重層的なまなざしの中、
眩い光を浴びて蘇らねばならなかったのですよね。
観客を得ることと読者を得ることの違いだ。
一作家の最大の読者はその作家本人でありながら
絶対に一読者を越えることができないという矛盾。
氏の脚本を何作か読ませていただいた。
拙い感想を送ったりもした。それが新聞に掲載されたりもした。
氏の脚本は、自分とは、あきらかに違う。
そりゃ違う。
そこに描かれているのは、ぼくが経験してこなかった他者だ。
人間だ。日本人だ。大きな日本人だ。
気は優しくて力持ち。生の生きた人間だ。
どんな英雄も眠り、食べ、排泄し、どんな佳人もその肌の退色におののく、当たり前の人間だ。
年齢の差か、経験の差か、技術の差か、
ぼくが書くことができない、当たり前の人間を描き続けている。
今も、海を挟んだ向こうでペンを持ち、
一人の人間を書いてるのだろう。
劇団再生が再生以前に再生しているのは、
氏をはじめ、たくさんの真の観客が真の読者がそのボタンを押すからだ。
ぼくたちは、真のPLAYボタンを明らかにし続けなければならない。
数日前にペンをいれた次の作品。
たった一枚を書くのに、もう10枚も破り捨てた。
そして、タイトルさえ書けていない。
氏の言う「台詞と詩と思想のエクリチュール」。
それさえも次回は捨てなければならないのかもしれない。
しかし、それを手放したら、また一からやり直し。
でも、そうせざるを得ない気もしながら、
原稿用紙に画を描いた。