さとうまりこの誕生日。一年間、ケーキばかり食べていた気もする。
2009年3月1日 22:50:45
先日、劇団員さとうまりこの誕生日。
稽古場でいつものように、ケーキを用意してお祝い。
ハッピーバースディをみんなで歌う。さとうまりこがろうそくを吹き消す。
彼女もここで年を重ねた。
この一年で、或いは二年で少しずつ何かが変化してきているのを、ぼくは、見た。
彼女にとって、この劇団再生という「場所」はどんなところだったのだろう。
そんなことを思う。
みんなにとって、「ここ」はどんな場所なのだろうか。
まさか、ケーキやお菓子を食べるだけのところ、ということはないだろう。
まあ、それはそれ。そんな場所でもそれは一つの価値だ。
お菓子を食べるだけの場所! そこは案外、きれいな場所かもしれない。
そして今日も稽古場では稽古が積み重ねられる。
演出卓には、パソコンと台本。
手紙を書くための便箋とペン数本。
煙草と灰皿、携帯電話。
そして、変わらない大量のお菓子お菓子。
休憩時間には劇団員が群がってくる。
お菓子こそが劇団再生の証だとばかりに、お菓子を食べる。
それは、間違っていない。
劇団再生のアリバイ。お菓子お菓子。
それにしても、だ。
言葉のあまりの不自由さに笑ってしまう。
「ここ」にある一つの感覚を伝えようとするだけなのに、
どれだけ言葉を尽くしても、うまくいかない。
一つずつ階段を上るように説明しようと試みるも、
ある高さまで行くと、言葉が詰まる。
それ以上の言葉が、ない。
それ以上の観念を伝える言葉がない。
日本語にはない。英語にもなさそうだ。他のどんな言語にもありそうにない。
身振り手振り見知らぬ国の旅行者のように話す。
言葉は、堂々巡りをしているだけなのがわかっていても、
そうとしか言いようがないことに、イラつき、苛立ち、笑ってしまう。
ポンコツ頭め!
言葉を知らなければ良かった。
と思うこともある。
けれど、ここまできたら一蓮托生毒を喰らわば皿までか。
言葉と心中。
本を読み続け言葉と言う言葉を喰らい尽くす。
と、苦笑しながらも、先は地獄か、或いは、
それにしても、だ。
あまりのポンコツさに恐れ入る。
帰宅して、電気を点けずに布団に倒れてみた。
私語する死霊たちが、うようよといるではないか。
そりゃそうだ、この暗闇はお前たちの「時間」だ。
空間と時間を相互に逆転させることのできる彼ら得意の戦法だ。
空間が巻き戻され、時間が広がる。
なぁなぁ、どうにも言葉が不自由だ。
彼らに訴える。
(そりゃそうだろ。お前は未だにそうやって罪を犯し続けている)
ままよ、と電気を点ける。
彼らは一瞬に逆転されたあれこれを正転させ、知らん顔。
コトバのやつも急な明るさに、きょとん。
どうすれば、全てを伝えることができるか。
言葉に頼りすぎているのか。
いや、そうじゃないな。言葉を選択したの自分だ。この不自由を受け入れるしか、
とそこまで思ったときに、
誰かが、言葉は神だ、と言った。
なるほど。
ならば、言葉を選択したということは、神に跪いたというか?
笑わせるな。お前に頭を下げた覚えはない。
繰り返される。言葉は神だ。
ならば、言葉を知らなければ、という仮定は、人間そのもの原初の命の歓喜ではないか。
なるほど。
言葉は神か。そんな2000年も前の手垢のついた言葉を、
なるほど、それも、言葉か。
いいだろう。
と、不敵に(見えるように)笑ってみた。
多分、うまく笑えなかっただろう。
それにしても、一年間ケーキばかり食べていた気がする。
選ばれた劇団員の誕生を喜び続けてきた。
彼らがここにいることの何か、何か、何かをケーキを見て、思う。