おなかをすかせたコトバがやってきて、鼻をかじった
2009年3月21日 23:33:35
にゃーにゃーと鳴きながら、コトバが飛んでくる。
おなかをすかせると、甘えた声を出して飛んでくる。
足元に飛んできて、にゃーにゃー。
膝の上によじ登り、にゃーにゃー。
本番まで一週間。
毎日のように稽古を積んでいる。
この作品の中で、言葉の独走を抑え込んできた。
脚本を書き始めた時に見えていたイメージを信じ続けてきた。
前作とは、違う方法だ。
謀らずもそうなった。
イメージを信じ続けるか、或いは、イメージに言葉を近づけるか。
同じことのようで、全然違う。
ずっと、言葉の善意を信じていた。
信じていたから、言葉の原風景に憧れてきた。
言葉の善良性に言葉の構造を建築してきた。
そうしてきたから、合理的な構築に美を見出してきた。
前作までは確かにそうだった。
今回は、
それとは確かに違う。
言葉の疾走を押え込んだ。言葉の跳躍を許可しなかった。
一言でイメージを崩壊させる言葉を楔として打ち込んである。
それは、堅固な構築物を建築するアキレス腱。
10近くあるその楔。
俳優は、その一言を恐れつつ、だが全霊で吐くだろう。
イメージを構成するのもまた、言葉。
言葉が描きだすのもまた、イメージ。
ややもすると自家中毒を起こし、矛盾に矛盾を重ね、
合理的な構造を失いかける。
だが、イメージを今も信じ続けている。
奇跡のバランスを信じている。
奇跡のバランスを創り出すのは、言うまでもない。
俳優の命だ。劇団員の命だ。生命だ。彼らの揺れ動く感情だ。
一秒もじっとしていない彼らの心の揺れだ。
俳優同士の呼吸から感じ取る雄弁な会話。
目を一瞬見るだけで感じあえる雄弁な会話。
劇団員がそれぞれ完全な命の在り方を楔としてこの物語に打ち込む。
磯崎いなほと電話で話した。
「劇団再生の一員にならないか」と池袋で話したあの夜を
お互いが思い出した。
演劇論を闘わせたわけでは全然ない。
ひたすらにお互いが演劇の土俵で正直に話したあの夜。
電話の向うで言葉を選ぶ磯崎いなほの、あの夜の言葉を思い出す。
「胃も痛くなりますよ」と彼女は、言った。
演劇論を闘わせたわけでは全然ない。
ただ、ひたすらに演劇という土俵に上がり続け、
そこから降りようとしなかったあの夜。
そりゃ、胃も痛くなるか。そんな土俵なんだから。
そして、今稽古を重ねている稽古場も、そんな土俵だ。
胃も痛くなる。逃げ出したくもなる。倒れたほうがましだと思う。
そりゃそうだ。
そこは、劇団再生の稽古場なんだから。
言葉とイマジネーションと俳優の命。
その三つがここだ。
イメージと言葉。その矛盾に矛盾を突きつける演劇場を
これほど正確に思い描けるようになったのは、今回の作品だ。
頭の中にはっきりとその合理的矛盾性を見ることができる。
それを誰かに説明することは、
そんなこともったいなくてしたくない。
コトバががじがじと鼻をかじる。
かじるがままに任せていると、
鼻は餌じゃないじゃないか! にゃーにゃー餌をくれー。