通し稽古の果てに
2009年3月25日 22:37:35
いつもそうだ。
本当にいつもそうだ。
この時期になると、
安定と不安定、或いは、定と不定、また或いは、実在と非在。
そんな事ごとが明らかにこの視覚に感知される。
明らかに見える。
一ヶ月余りの期間を稽古に稽古を重ね、
今がある。
その今、そう、いつだってそうだ。
本当にいつだってそうだった。
この通し稽古を目の当たりにする自分の主体を自在に掌。
なんのことはない。
通し稽古を見ながら、一ヶ月余りを見ている。
そりゃ当然そうだ。
劇団員の一ヶ月余りの時間という時間。歴史という歴史。
それを、見ている。
偉そうに演出卓に席を構え、劇団員を一秒も余さず見ている自分を、見ている。
どこの現場でも、通し稽古、と言う。
昔から通し稽古、と言う。
上演を拒む脚本を書いてきた。
それは、確かにそうだ。
そして、今、自身その脚本を手にこれほど上演を熱望している。
前回の公演からだったか。
疲労の果ては、ただ涙が出るだけだということを知った。
疲れが度を越すと、
なぜか悲しくて寂しくて、涙が出る。
昨年の冬、それを知った。
通し稽古を見た。
稽古場には、撮影をしてくださる吉野邦彦氏が下見に来られた。
いつものひょうひょうとした雰囲気をまとった彼は、
この通し稽古に何を見たか。
さすがに専門家の目だ。
彼の目には、すでに記録されていく映像が見えている。
通し稽古を見た。
昔から、どこの現場でも、通し稽古という。
新劇でもミュージカルでも小劇場でも、そう言う。
稽古を終えて、
何故通し稽古をするのか、と劇団員に問うた。
ぼくが今日、見たのは確かに通し稽古の一つだ。
右手に鈴木さんから頂いた拳銃を握り締めて、それを見た。
発砲を抑えていたのは、なんだったか。
なんだったか、と問いを発したけれども、そりゃわかっている。
右手の拳銃は、拳銃以上の重量を、した。
今日、通し稽古を見た。
実在と非在を見た。定と不定を見た。或いは、
虚体を証明するための劇団員の新しい策略か。