劇団再生のことばかりを、考えている

2009年10月18日 22:57:09

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演劇のことばかり考えている。
と、言うよりも、劇団再生のことばかり考えている、と言ったほうが正確だ。
車を運転していても、バイクに乗っていても、歩いていても、
シャワーを浴びているときも、恥を忍んで何かを食べているときも、
生活のため自分の時間を換金しているときも、こうしてじっと座っているときも、
実は脚本を書いているときも、洗濯物を干しているときも、
劇団再生のことばかりを考えている。

舞台でしかできないことに惹かれてきた。
演劇でしかできない表現に憑かれてきた。
そして、それ以上に劇団再生にしかできない芸術に目を眩ませている。

ぼくたちという、自己の存在そのものを唯一の法則とし、
ぼくたちという存在そのものを唯一の理念とし、戒律とし、
それ以外は、どんな法則も一切認めない。

自己の存在という法則は、抑制を限りなくなくし、
自己の存在という法則は、制限を限りなくなくし、けれども
自己の存在というがんじがらめの戒律に縛られ、けれども

だからこそ、限りなく自由を煽動する。
煽動するのは、ぼくたち自身であり、
煽動されるのもまた、ぼくたち自身であり、
舞台でしかできないことに惹かれてきた。
演劇でしかできない表現に憑かれてきた。
そして、それ以上に劇団再生にしかできない芸術に目を眩ませるばかりだ。

達磨法師が見詰めるのは、何か。
その目の先にあるのは、何か、誰か、どこか。
達磨法師のその肉体に爪を立て、爪の立てられた肉体からは血が流れ、

よし、いいだろう。
この腕をくれてやろう。まだ、思考するこの頭が残っている。
面壁九年。君にこの足をくれてやろう。まだ、この思考する頭が残っている。

さあ、持っていけ。
ぼくの腕だ。ぼくの足だ。生きる、ということの本当の意味を教えよう。
体のあちこちが痛むからか、凶暴な純愛が頭をもたげる。
自己の存在を唯一の法則とし、ぼくたちは煽動し続ける。

ぼくたちは煽動する。池袋東口の街宣車の上なんかじゃなく、
そんなちっぽけな場所ではなく、そんな空虚な場所ではなく、
ぼくたちは煽動する。新宿西口の歩道の上なんかじゃなく、
そんな汚れた場所ではなく、そんな閑居な場所ではなく、ぼくたちは煽動する。

空だ。

ああ、君の言うとおりだ。

呼吸をしよう。
窒息するまで呼吸をしよう。
空はどこまでも空だ。
呼吸をすることは空になることだ。

空でいっぱいになる。
空でいっぱいだ。

自己の存在そのものを唯一の法則とし、ぼくたちは呼吸する。
ただ、

窒息するために。
言葉の空に窒息するために。

時間がほしい。
ヴィヨンの詩を1時間かけて探した。
本の詰まった段ボールの底から、それが出てきた。
読んだ。泣いた。わかった。

達磨法師が今も、目を据え、何かを見ている。どこかを見ている。
教えて欲しい。
達磨法師が見据えているのは、何だ。誰だ。どこだ。

体の痛みに何色かの錠剤を噛み砕いてみる。
それが喉を過ぎる時に、自己診断プログラムを作動させる。
単体でこそその最大の能力を発揮するように作られたぼくという一台のマシン。
強力な自己診断プログラムが組み込まれている。
そのプログラムを書いたのが誰かは、知らない。
エンターキーを押し、それを作動させた。

肉体の細部に至るまで診断を行う。
処理システム、通信システム、計算システム、保存システム、入出力システム、
電源システム、クーリングシステム。プログラムが一つずつ診断していく。

診断プログラムのログが出力された。

iTuneから、「唐獅子牡丹」が流れてきた。

親にもらった 大事な肌を
墨で汚して 白刃の下で
積もり重ねた 不孝の数を
なんと詫びよか オフクロに
背中で泣いてる 唐獅子牡丹

健さんの声を聴きながら、診断プログラムのログを読む。
達磨法師の目の先にあるのは、誰か、何か、どこか。

時間がほしい。

それにしても、劇団再生のことばかりを考えている。
自分でも驚くほど、それを考えている。
ドストエフスキーが「一切はゆるされる」と書いたその一切とは何か。
太宰治が「一切は過ぎていきます」と書いたその一切とは何か。
親鸞が唱えた「一切はゆるされる」という観念の一切とは何か。

ぼくたちは、ぼくたちの存在そのものを唯一の法則として、その一切に向かう。

真夜中か、
久しぶりに達磨さんに話しかけてみるとするか。