見沢ママの誕生日会

2010年2月10日 14:53:22

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先日は、故見沢知廉氏ご母堂の誕生日。
劇団では、親しみを込めて見沢ママと呼んでいる。ころすけ君が言い始めた。

数年前を思い出す。
見沢さんの三回忌追悼公演を行うために、関係各所方々を駆けずりまわていた。
右翼だの左翼だの出版社だの、あっちの関係者こっちの関係者を歩き回っていた。
関係のみなさんに快く協力いただき、『三回忌追悼公演』を行うことができた。

その駆けずり回る一番目が、見沢ママだった。最初は電話で話した。
自己紹介をし、企画を話した。見沢ママは、最初は当然警戒されていた。
そりゃそうだ。誰だかわからない、どこの馬の骨かわからない劇作家がいきなり、

「見沢さんの芝居をしたいんです」だ。

あらためて電話をします、と言われた。
そのあらためてが、なかなか訪れなかった。
だめなのかな、と思っていた。ダメなら、別の一手だ、と迂回路を作り始めた頃、電話があった。
見沢ママは見沢ママで、ぼくをリサーチされたようだった。
それから、何度も電話で見沢さんの話を伺った。
一回の電話が毎回数時間に及んだ。ぼくはメモをとりながら、話しに話した。

そして、公演の具体的な話をするためと、パンフレット掲載の写真選択のために会った。
一水会事務所だった。その時に、ころすけ君も一緒だった。
ころすけ君は、見沢ママとたくさん話していたようだ。
ぼくはいつまでも見沢ママに対してある種の緊張と畏れを抱いていた。
だから、見沢ママのことを本名で呼んでいた。

ところが、ころすけ君は、ある日唐突に、

「見沢ママ」と言った。

見沢ママ? なんじゃそりゃ? どんな仲良しだ? ころすけ君を怖れた。
にこにこと「見沢ママ、見沢ママ」と連呼していた。
ころすけ君が見沢ママから聞いた言葉を追悼公演『天皇ごっこ』のラストシーンに書いた。

ころすけ君が高田馬場で聞いたその言葉こそが、本当だと思った。

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先日は、その見沢ママの誕生日。劇団でお誕生日お茶の会を開催。
みんなで楽しい二時間を話した。

目の前で話される見沢ママを眺めながら、やっぱり畏れをいだいた。
なんという人生、なんという強さ、なんという優しさ。
三回忌追悼公演が終ったあと、ぼくの母親から電話があった。

「お願いだから右翼にならないで。
あなたが人を殺して捕まったら、私は、見沢さんのお母さんみたいにはできない」と。

発言のあちこちに短絡的連絡があるけれども、正直な気持ちなんだろう。
右翼でも左翼でもそんなに人を殺したりはしないよ、と言った覚えがある。
なんの説得力も無い。
そして、翌日、また電話があった。

「あんたのHPに日の丸があるらしいけど、右翼になったの?」と。
泣きそうな声だった。すぐに日の丸を下ろした。

お誕生日会は楽しい語らいだった。
見沢ママが元気でいてくれて、それを祈り続けた。元気でいてください。

そして先日、心乱れるまま脚本を書き終えた。