昨夜のように何かを理解することの快楽以上の快感はない
2011年1月18日 22:27:06
キェルケゴールを理解した、と昨日、書いた。
『不安の概念』『死に至る病』という彼の遺した一思考。
実存の祖とも言われるキェルケゴール。
彼の神への信仰がぼくの理解を妨げていた。
けれども昨夜、その神への信仰というファクタを一気に飛び越えて理解した。
恐るべき快感。
そして、ぼくの為すべきことを考えさせる。
もっと高く、もっと高く、もっと遠くへ。
理解の埒外まで。
理解の範疇にある間、それは決して芸術とは呼ばれないだろう。
飛べ! 理解の向こうへ。
近い将来、ニーチェをこの肉とするだろう。
フッサールをこの血とするだろう。サルトルをこの骨とするだろう。
そして、実存的芸術への道を正統的に歩けるようになるだろう。
その実存的、という言葉において理解を拒みながら、
そして、この肉体主導において、裸の街を拒絶しながら。
形而下で生きるあなたにもっと優しく接することもできるだろう。
それが全てぼくの偽善だとしても
形而下のあなたにそのことがばれることは決してない。
形而下を抱いて眠るしかなあなたにぼくの完全なる偽善が見抜けるはずがない。
形而下の五里霧中的素人にわかるはずがない。
だまされることに快感を得ているあなたに芸術のなんたるかがわかるはずがない。
ぼくは昨夜、キェルケゴールを理解した。
その理解を誰かに伝えようとは思わない。
伝えられるはずがない。言葉になんかできないんだから。
ぼくは、ゴータマ・ブッダではない。
ぼくは、臨済ではない。
彼らの優しをぼくは持ち合わせない。
伝導という優しさの替りにぼくは、演劇という冷酷を選択した。
いつか書いたことがあるかもしれないが、あらためて書いておく。
演劇の基本的正確は、冷酷と残酷だ。
個人の完全なるものでしか、それは創ることができない。
形而下での理解と経験。
それがもてはやされそれを一つの武器として創られてきた演劇はもう終わりだ。
観客をなめるな。
常に、
演劇は、理解の前方を進まなければならない。
それを理解しない演劇者は形而下の蜘蛛の巣的時間に縛られていればよい。
それを決して否定しない。
だって、そこは安心する場所だろうからね。
その安心に不安や焦りがついてまわるとしても、
それはあなたが選んだんだから、それらと一緒に形而下的時間を過ごせばよい。
ぼくはそれを羨ましくも思う。逆説的にね。
いい場所じゃないか、形而下。
楽しそうじゃないか、形而下のあなた。