そして今日も本を読む

2011年1月22日 23:06:38

そういえば少し前まで「本を読むこととは何か」ということを考えていた。
「読書」とは何か、と。
こうして日がな一日本を読んでいると、そんなことも考えなくもなる。

今日読んだのは三冊。
どうでもいい本もあったが、どうでもよくない本もあった。

稽古場で劇団員の顔を見る。
そういえば少し前まで「演劇とは何か」ということを考えていた。
こうして「在る」自己と対話しているとそんなことも考えなくなる。

読書が何に「なった」のか。
演劇が何に「なった」のか。

そんなことは知ったこっちゃない。
ただ今、この現在の現実において、それは考えるに値しない。

極度の定義癖と思考癖を持つこの自己の中で今、
何を定義し思考しようとしているのだろうか。
時間を作りだした者の正体か、
思考を思考し始めた者の名前か、
世界で最初に発せられた言葉か、
世界の終りに呟かれる或いは叫ばれる最後の一言か、
人間が必ず死ぬという俗説か、
複素平面に置かれた証明不能の一点か、
球面座標に穿たれる心という移動点か、

そんなもの退屈しのぎに考えることはあるだろうが、
考えるに値するか、と問われると、

それほどでもねぇな、と答えるしかない。

どれもこれも難問揃いだ。右から左に証明が立てられるわけでもないだろう。

でも、考えるに値するかと問われればやっぱり、
それほどのもんじゃねぇ、と。
日がな一日本を読み、稽古場で何かを見、バイクのアクセルを開け、

たまには明日の存在を証明してみるか。
それもつまらんな。
じゃあ、何を考えよう。

モニタには、『太陽がいっぱい』が流れている。
いい映画でも観ないことには、目が休まらない。
見えすぎて困るんだ。
何もかもが見えすぎる。目を閉じても見えるんだから困ったもんだ。

この見えすぎて疲れることへの対応として考えることをしてきたけれども、
考えることの何もかもが退屈で、どうにも参る。

見えすぎることから逃れようと
ままよ、対症療法。もっと見てやれ。
『太陽がいっぱい』を観ながら今も
地球の裏側の同じそれが見えるんだから困ってしまう。
それでもそうして何かを見ることが見えすぎることからの防衛なんだ。

いずれ、

あと数か月後か、

その時がくれば、見えすぎるそれをそれ以上に徹底的に見ざるをえなくなる。

それにしてもだ、今日も一日本を読む。
丸山健二にデリダに大健、カーにレヴィナス。

微熱がデフォルトか、
熱いのか寒いのかなんだかわからない皮膚表面の細胞こそが或いは、

現実のぼくかもしれない。
駄文もここに極まれり、か。