ここに書きつけることと言えば、本とコトバのことだけか。なるほど、思考の全てを記録したいと思うも、感覚全てを記述したいと願うも、「出来事」との間の思考に未だ慣れず、こんな駄文と化してしまう。
2011年2月6日 13:06:24
昨夜から、山平重樹氏の『連合赤軍物語 紅炎 (プロミネンス)』を読んでいた。
体は不調を訴えながら、そしてばたばたと落ち着かない日常と時間。
でも、読み始めたら面白くてやめられなかった。
どんどん読み進め第4章に入ったところだった。「変容する革命左派」という章題。
次のページをめくる。小見出しは、「坂口と永田洋子の結婚」。
一服しようと煙草に火をつけ、コーヒーを淹れた。パソコンを立ち上げた。
そして、googleニュースのトップで「永田洋子の死」を知った。
時計の秒針の音が気に障り、電池を抜いた。4時27分53秒で止まった。
ルソーを読み進めている。鈴木さんの影響かツヴァイクに手をかけている。
先日入手した黒の羽織をキモノスイッチに持っていこうと思いながら本を読んでいる。
本を読みながらサーキュレーターの音が耳につき、止めた。
静まり返った部屋の深度に重い冷気が忍んだ。
深化する一人の中でひたすらに活字を追う。演劇は一人でしかすることができない。
その結論に異議を唱える夜は懐かしいかなたの喧騒に置いてきた。
ページをめくる音だけが時に思索下に繋ぎとめる。
それ以上思索上に上がったらお前は発狂するとの警告だろうかと考えた時、
森田童子を聞きたいと思った。聞きたいと思ったけれどもそれを耐えてページをめくった。
誰か、誰か、誰か、と呼ぶのはやはり己の甘えではないかと自己を叱責しページをめくった。
甘えが何かを創りだすことはない、と仮説を立ててみるもそれを立証すること避けている。
その理由もわかっている。手放したくない「何か」がここにある。
それが「ここ」に「在る」が、現実の一人という現実からしか何も生まれないのではないか、と
ページをめくる。甘え過ぎたか、とページをめくる。
そうか、今日は大恩ある方の誕生日だ。2月6日。電話をする。
「おめでとうございます」と電話をして、本を開いた。
そうか、今日は赤尾敏さんの命日だ。2月6日。「評伝 赤尾敏」を手にした。
そういえば昨日読み終えた「証言・昭和維新運動」で赤尾敏さんの言葉に胸が詰まった。
昨日から本を読み続けている。何故か、
何故か知らないが涙が出たり、何故か、
何故か知らないが涙がこぼれたり、何故か、
何故か知らないが、この部屋に深化する高さ30cmのマイナス1度に膝を抱えて本を読んだ。
一人が怖いのか、と問いを立ててみる。
涙が出るならその問いに自身答える義務があるのではないかと問いを進める。
違う、泣いてるんじゃない、ともう一つの自己を現出させ二つの自己のやりとりを、
まずはぼんやりと眺めていた。よくあることだが、そこの二つの自己たちの間に
三つ目の自己が中立を守ろうとするかのように登場した。まあいいか、とそのままにしておいた。
三つの自己のやり取りはいつもなかなか興味深い。彼らの言葉を聞きながらページをめくった。
老眼鏡をかけても涙があるとやっぱりピントは合わない。証明するまでもない。
誰にも教えたくない本がある。それは誰にだってそんな本はあるだろう。
手元にあるこの一冊。早くページをめくりたいけどもったいなくて今はただ、
その凛とした姿を眺めている。そんな本がある。43年。そんな本は10冊くらいは、ある。
とはいえ手元にあるこの本は早く読みたい。腰を据えて、という言い方が一番近いが、
真正面から読みたい。この机に積み上げている本の一番上に鎮座しているその本は、
美しい。
今日も一人ページをめくる。本ばかり読んでいる。