『鈴木邦男という質量』
2011年2月8日 16:58:36
先日行った読書対談『全集を読もう!』。この対談も今回が三回目となった。
筑摩書房の『日本思想大系』から始まったぼくの「全集読み」もあれから4年目を迎えた。
読書に関する対談以外にも、いろいろな論題の対談や座談会に声をかけていただくようになった。
ぼくの専門と言えば、かろうじて演劇だ。
それ以外のこととなると全くと言っていいほど語る言葉を持たない。しどろもどろの素人同然。
だから、与えられた論題についてなんとか自分なりの意見を言えるよう予習する。
資料や関連書籍を読むのは面白い。ぼくの知らない世界の入り口に立たせてもらえる。
今月の『月刊TIMES』だ。
毎月の鈴木さんの連載。「鈴木さんにしては硬派な」という表現は、編集者の高橋あづささんの言。
なるほど、硬派だ。毎月楽しみにしている連載。
この雑誌の入手は、書店ではなかなか難しい。
ご希望の方は一報いただければなんとかなるかもしれません。
この連載は、昨年一冊にまとめられ出版された。『遺魂』だ。
素晴らしい編集の一冊。編集者椎野礼仁さんと高橋あづささんの傑作的一冊。
「ぼくが書いたのに、編集ばかり褒められる」とは鈴木さんはぼやくがそれはそれ。
編集と言う力と理念がはっきりと具現化された一冊。こちらは大体書店で入手できるでしょう。
鈴木邦男という質量、という通題でこの「高木ごっこ」にいくつか書いてきた。
「質量」という言い方は、多分正しい。
多分、と言うのは、その証明を時間が背負っている故、現在は、そう言わざるを得ない。
鈴木さんと電話で話す。
「あの事について話しましょう。対談しましょう。あの本の対談しましょう。」
「読み手や客のことなんかほっといて、ぼくたちだけが楽しい話をしましょう。」
いいですね。そうしましょう。
読み手の事なんか関係なく、観客の事なんか関係なく、ぼくたちの楽しい話だけをしましょう。
そう答える。そのために勉強する。本を読む。ぼくの「質量」を自ら計りながら、読む。
自らの質量を計る行為は、ひどい痛みと不快を伴うけれども仕方ない。
ぼくが鈴木さんの質量を計測するようにいつか時間がぼくの質量を計測してくれるかもしれない。
してくれないかもしれない。とはいえ、「質量」という概念の精緻。
鈴木さんは、今も原稿を書いているだろう。
今も本を読んでいるだろう。己の質量に不快を抱きながら。