一番高い場所

2011年2月13日 22:05:53

写真

コトバがそこにいる。
この部屋で一番高い場所に陣取る。
本能か、性質か、主張か、示威か、とにかく高い場所を求め獲る。

このやろー、俺の方がもっと高い場所を知ってんだ!

公演と公演の合間の稽古場で、「高木ゼミ」という時間をとっている。
一時間弱という時間。時に延びたりもするけれども、どうあれ必要な時間だと。
演劇の構造、歴史、概念、発展を話したり、もちろん、そんなものの専門家ではないけれども、
これまでの演劇と言うフィールドで積み重ねてきた全部を話しておきたいと思ったりする。
それとともに、ぼくが考え今に至り、そしてこれから向かうであろう演劇の先のことも。
それは、どうしても観念的になり、言葉が先行する哲学的(という言葉は嫌いだが)になったりもする。

そして、
その観念的あるいは哲学的な演劇の向こうを実現するための方法論を模索する。
現在の「高木ゼミ」は、その模索の最中だ。
一つのテキストを間に、一つ一つの言葉を執拗に追い続ける。
何故、作家がその言葉を書いたか。
何故、その形容詞を使ったか。
何故、その倒置があるのか。
一見不必要だと思える重要な一言に気付くことができるか。
その言葉が自己主張しないように一見不必要に見えるようにどれだけ作家が苦心をするか。

本を読む、という。

俳優は、本を読んで稽古場に来、「稽古」をする。
本を読めなければ稽古場に来ても「稽古」にはならない。

自分勝手な読み方をする俳優はたくさんいる。
それが個性だと、それが主体だと、それでいいのだと。
もちろん、正確で客観的な読み方ができて、
それを自己と言う主体に落とし込む時に読まれる自己的な読み方もある。
でも、それができるのは、ぼくの知る限りほんの一部だ。

本が読めもしないのに変な強気と気弱さを同居させる俳優と言う生物。

昨日の稽古でテキスト第二部を終えた。
文学講座のような稽古になりがちだが、正しく読むということは一つの技術だ。
その技術を磨くことは、決してマイナスではない。
昨日の稽古で、俳優の理解の前進があることに気付いた。それは、ぼくにとって楽しいことだ。
それは、このまま「稽古」に入りたいと思わせる嬉しさを伴う。

次の稽古から、第三部。
年度末までの時間をかけて、読み込みと理解の前進に挑む。
もっと高く、もっと高く、と。
話せることは話しておきたい。特に、今は。なんでもいいから出力したい。
出力しないと発狂するんだ。何故って、九月の舞台が見えに見えすぎて制御できない。

特殊効果・舞台装置を担当する森本薫氏に決定事項を伝える。
可能だ、と結論付けた決定事項。だがしかし、

先は、見えた。

まだまだ、たくさんの画がフラッシュするだろうけれども、それも想像できる。
そうなると、こう言っちゃなんだが、

退屈なんだ。

やっぱり、書くか。もう、書くか。
九月の脚本はまだだとしても、他に一本書き上げてみるか。
いつ誰が上演するかわからないけれども、一本書き上げてみるか。
書き上げて、ほらよ、と誰かに投げてみるか。誰かに渡してみるか。
書き上げたものに興味はない。

明日にでも訪れてくるだろう退屈をどうにかするために、

一本書いてみるか。

コトバは、まだ一番高い場所。なんだ、まだそこか。
俺はもっと高い場所を知ってんだ。いいだろー、コトバ。

挑発してみたが、コトバはのってこない。

俺はもっともっと高い場所を知ってんだ。そこにはいつでも行けるんだ。
小さな言葉の手をひいてそこに行けるんだ。いつだって行けるんだ。

いいだろー。