稽古場で声・音声・音について考える

2011年3月8日 23:55:46

稽古場で行われる高木ゼミにおいて、
音声のみによる視覚的景色の創造に挑んでいる。

声とは、そも何か。
音声とは、そも何か。
そして、音声のうちには何が存在するのか。

そんなことを考えたりする。
目の前の俳優の声を聞く。
その音がもつ歴史性や社会性に目をやる。
その音が、その俳優という個体の丁寧に精錬されたそれなら、
そこには、やはり精錬された時間というものが現れている。
しかし、肉体の欠損や或いは一時的にせよ肉体の不調や、
また精神が及ぼすところの筋肉の緊張や弛緩が声に現れたりすると、

そこには、何も生まれない。
視覚的な景色創造という目的にとって一番遠い場所の声となる。

稽古場での思考は、『声』という言葉で指示する次元を
目の前に取り出すことから始める。
その次元を取り出し、『声』という次元に何が存在するのかを思考する。

アリストテレスの『命題論』の中でも言及されることだ。
ということを思い出し、稽古場から戻り、本を探した。

『音声のうちに存在しているものは霊魂のなかに受容されたものの符牒である。
そして書き記された言葉は音声のうちに存在するものの符牒である。
また文字がすべての人間にとって同一ではないように、音声もすべての人間にとって同一ではない。
これにたいして、音声がなによりもまずその符牒であるところのもの、すなわち、霊魂のなかに受容されたもの自体は、すべての人間にとって同一である。
また、霊魂のなかに受容されたものに対応するわたしたちの実際的な経験がそれの似像であるところの事物も、すべての人間にとって同一である。』

アリストテレスがここで言う霊魂、というものは、
現在においては感覚しづらいかもしれない。

声という能力
音声という効果
音という物質
言葉という時代

それらを相互に翻訳しあう『出来事』をこそ注目しなければならないのではないか

その相互補完的翻訳者は誰か、どこにいるのか。
その存在を認識することが、

われわれの目の前に具体的な事物を生み出す原動力となるはずだ。
それは、例えば、落語において顕著にあらわれている。
それについては、またいつか書こう。

稽古場で、一時の不調で声が精錬されていないと、
昔は、ただイラついたりした。
なんだ、その声。そんなんじゃなんにも見えない。その声じゃ先にすすめない、と。

じゃあ、今はどうか。
そりゃまあ(その声じゃどうしようもない)と思いはする。
思いながら、その俳優の中の翻訳者を探す。
論理的には6人の翻訳者がいるはずだ。
その6人のうちの誰が仕事をしないでそんな音を出させるのか、と。

考えること。
唯一、それが退屈を紛らわせてくれる。