声、ということを考えながら
2011年3月10日 00:14:31
ヘーゲルは、1805年の講義で、
『声は能動的な聴覚である』と語っている。
そして、
『自らを一般的なものとして定立する純粋の自己である』とし、
『苦痛、欲求、快楽、満足』を表しつつ、それらは
『個別的な自己の廃棄(Aufheben)』である、とする。
なるほど、
人間の言葉は、意識の声だ。
言葉のうちにあって意識は現存していて、実在性を与えられている。
それは、言葉が分節された声であるからだ。
音声のうちには何が存在するのか、という問いに対して、
『音声のうちには無が存在する』、
『音声は否定的なものの場所であり、声、すなわち純粋の時間性』である、
とするアガンベンの哲学的な答えも首肯される。
とすれば、だ、
レヴィナスの痕跡的な概念とハイデガーの差異的な概念を発展させていく
デリダをこそ考えねばならない根本かもしれない、と
今日、考えてみた。