引き続き、声と言葉と無についての論考
2011年3月11日 01:15:32
レオナルド・ダ・ヴィンチの手稿の一節。
『わたしたちを取り巻いている大量の事物のなかでも、
無の存在は第一の地位を占めており、
その管轄権限は存在をもたない事物にまで及ぶ。
そして、その本質は時間の領域にあって過去と未のあいだに存しており、
現在についてはなにも有してはいない。』
『無と呼ばれるものはただ
時間と言葉のなかにのみ見出される。』
そして、また象徴的で考えねばならない一説がある。
ナグ・ハマディ写本のコデックスの一つにはこうある。
『わたしは到達しがたい
沈黙
そして多くの思い出が残っている
エピノイア(思念、とでも訳すべきか)
わたしは多くの音に
起源をあたえる声
そして多くの像をもつ
ロゴス(これは、まあ、言葉、だろう)
わたしはわたしの名の発音者』
この最後の一行だ。
『わたしはわたしの名の発音者』
寺山さんは、このコデックスを知っていたのだろうか。
それとも、この感覚は普遍的なものなのだろうか。
わたしの名前をわたし自身が発音するというドラマに感傷を感じることの普遍。
そして、やはりまた今だからこそ、
「わたしの名前」を「わたしが発音」「する」ことの意味を考えねばならない。
わたしがわたしの名を発音することに
声を言葉の関係が顕著にあらわれてくると思われる。
そして、行きつく先は、やはり過去と未来を存する無だろうか。