考える
2011年5月2日 11:11:37
もうずっと頭の一隅を占拠したまま「在る」問い。
稽古場での描画に対して高度な接続を試みているときに、
不意に覚醒してくる、その「在る」問い。
駅のホームで地下鉄を待っているときに、
その日の疲労をこじ開けて迫ってくる「在る」問い。
知の果てに向けて唾を吐きながら読書を駆ける時間に
無限のリンクを断ち切ってその凶暴な顔を晒す「在る」問い。
それについてぼくは一生口にすまいと決めていた。
確かに決めていた。
言葉以外でしかその問いに対する「解」を提示することはできないと思った。
だから、これまで【「在る」問い】に関することを発言したことはない。
けれども、非常に暴力的な天災の結果、その「在る」問いが
こんなに身近に降りてきた。
困った。
5月2日。
忌野清志郎に目を閉じる。
5月3日。
高橋和己に目を閉じる。
5月4日、
寺山修司に目を閉じる。
その問いの提出は、確かぼくが生まれた頃だ。
その問いの時間とぼくの生きてきた時間はほぼ重なる。
一生かかっても考えつくせないことがある。
けれども、「考える」ということは、やはり何か一つの答えをだすことでもある。
もちろん「考える」ことを「考え」た上で、また
「考える」ということがどういうことかを「考えている」この途上での、
なにかしらの一つの答えを
なにかしらの方法によって
読むか、書くか、死ぬか、と気取ってみたところで、
その問いの前の無力さが変わることもない。