稽古場ではいろんな出来事が現象し、
2011年5月3日 21:14:57
4月から新しい年度。
生まれてきて、生きていて、生き延びていて、ここにいることの大本。
誕生日を4月に迎えた市川・ころすけ・未来。
今年度のプレゼントも昨年度を踏襲。みんなでくじを引き、担当が決まった。
誰が誰にプレゼントを用意するのか、それは、担当者本人しか知らない。
市川・ころすけ・未来へのプレゼントは、磯崎いなほから。
どうやら、昨年度と同じらしい。
プレゼントは、写真のもの。ラクダだ。ラクダと言えば、「もぐもぐ」。
以前にラクダの登場する物語を描いたことがある。
そこに登場するラクダは、「もぐもぐー」と台詞を言っていた。
ラクダは、案外好きな動物だ。もしかして、ころすけ君も好きだったのか。
ころすけ、ころっけ、らくだころっけ、と口にしてみる。なるほど、語呂はいい。
先日の稽古場に、森本薫氏がやってきた。
9月の舞台模型を携えてやってきた。包みが開けられて、模型が現れた。
設計したとおりだ。豊かな描画力で目の前に巨大な舞台が見える。
楽しくなる。丁寧な仕事だ。縮尺を合わせた人型も何体かいる。
模型で組めれば、実際の舞台もできるだろ、と高をくくっているが、森本氏には、
いくつか危惧する点があるらしい。が、その顔をみていればわかる。
『凄いのができる!』
その顔がそう言っている。大丈夫だ。できる。思った通りの舞台美術ができあがる。
これまで、思い描いた舞台ができなかった試しはない。思い通りのものができてきた。
今回もそうだ。必ずできる。それも、案外簡単にできてしまう。不可能だの、妥協だの、は、
この稽古場には、ない。ぼくの創る舞台には、ない。
不可能事を描画可能な高さにまで止揚できなければ、そんな舞台はその時点でやめればいい。
現実的妥協と描画可能な高度への止揚は、違う。その違いが分かっている演劇者は、少ないが。
ぼくは常に前方への高度を肯定する。
目の前に解決困難な現実を見せられると、どうしてもその個人が
理解可能なところまで困難を下げて理解しようとする。その場所での解決を試みる。
その低さで解決すれば、解決したと満足しがちだ。下らん。そんなんならその時点でその作品はやめだ。
今、ぼくにとっての解決困難な問題は一つだ。
40数年前にフランスで提出された、一行の問い。それを考え続けている。
行動は、言葉で表現できないから、行動だ、という一言もある。
舞台は、言葉で表現できないから、舞台なんだ、と言い換えは可能だろうか。また、
演劇は、言葉で表現できないから、演劇なんだ、という言い換えはどうか。
しかし、言葉で提示された問題に対して、行動で答えるのは、いささか卑怯か。
40数年前の問題に対して、今、演劇で答えようとすることに意味はあるだろうか。
言葉での問いは、やはり言葉で答えるべきだろう。
しかし、行動こそをその言葉とせよ、という煽動もある。ぼくは、ぼくの天性の冒険に従うだろう。
森本氏の製作した舞台模型。それを見ながら、ぼくは思った。不可能という出来事を愛する、と。