過ぎたことや、過去や、昔、そんなことを考えていた見沢知廉の墓前

2011年6月25日 22:49:13

写真

見沢さんの墓参りに行ってきた。
毎月のことだ。いつものように本駒込駅に降り、歩いた。
今日は、池内ひろ美さんも墓前に。
池内さんとも久しぶりにお会いし、見沢さんの墓前で話す。
見沢さんの事を話す。

見沢さんは、死んだ。
もう生きてはいない。

死ぬ、ということは、どういうことだろう、と考えた。

忘れられたら死ぬんだね、と歌った人がいる。
ぼくが死んだらそっと忘れておくれ、と歌った人がいる。

死ぬ、とは、何か。
死んだ、とは、何か。
忘れる、とは、何か。
そして、同時に忘れないとはどういうことか、
そして、同時に生きているとはどういうことか、

そんなことを、ほつほつ頭に関係させる。

部屋に、

見沢さんが生前掲げていた北一輝の写真がある。
見沢さんから受け継いだパネルだ。

部屋に、

見沢さんが読み込んできたたくさんの本がある。
獄中で読んできた本がたくさんある。

いろんな人から、「なぜ見沢知廉をやるんですか」と聞かれる。
いろんな人から、「どうしてそこまで見沢知廉を掲げるんですか」と。

答えていいだろうか。
いま、ここで答えることは、実は簡単だ。答えは用意してある。
だが、答えたら、ぼくを取り巻く現在の世界が変わる。
それでいいのか。
現在のぼくを取り巻く世界にぼくが責任をとらなくていいのだろうか。

ぼくが、その答えを答えたら最後、なにもかもが、終わるだろう。
ぼくの演劇、という一つをとっても、それは終わりを告げる。
ぼく自身はそれでもいい。終わったところでぼくは変わらない。
今の世界が終われば、

また一から新しく世界を創るだけだ。簡単なことだ。
全く新しい、一からの関係を持って、ぼくは新しく演劇するだろう。

何故、見沢知廉をやるのか。
何故、見沢知廉の深間にいるのか。

答えようか。
いま、ぼくは笑った。多分、相当に残虐な顔だっただろう。
現在の世界に対する完全な破壊を伴う答えを答えようか。

何もかも捨ててみせようか。
何もかも終わりにしてみせようか。

答えの断章は、

三回忌追悼公演『天皇ごっこ〜母と息子の囚人狂時代〜』から積み上げてきている。
『天皇ごっこ〜思想ちゃんと病ちゃんと〜』
『雨の起原〜天皇ごっこ〜』
『天皇ごっこ〜調律の帝国』
『空の起原〜天皇ごっこ〜』
『見沢知廉・男・46歳・小説家』

と、6本の舞台で着実に積み上げてきた。
その答えの断章に気付いた人はどれだけいるか、

それはわからないけれども、ぼくは、13回忌までの積み上げを計画し、
それを、一歩ずつ実現してきた。

例え、その積み上げがぼくだけにしかわからないとしても。

なぜ、見沢知廉なのか。どうしてそこまで見沢知廉なのか。
その問いに答えるのは簡単だ。今すぐにでも答えよう。
ただ、

現在の世界全てと引き換えにだ。
答えてもいいが、何もかも終わりにせねばならない。
今、実は、

そうしてもいいのかもしれないとも思っている。
見沢さんは46歳で死んだ。ぼくは、44歳になった。あと2年だ。

13回忌を迎えるときには、ぼくは50歳。
そこまで、ぼくは、ぼくの答えを答えることの衝動に耐えていられるだろうか。

7月21日には、見沢知廉を語るイベントが開催される。
8月にもそれが予定されている。
9月5日にも、見沢知廉イベントを計画している。
七回忌の法要を執り行う。
新作の舞台を発表する。『蒼白の馬上』だ。
大浦信行監督の映画もロードショーが決まった。
見沢さんの本も出る。山平さんは連載を開始した。

みんなそれぞれに、見沢知廉に対して「理由」があるだろう。
理由がなければ、そんな大変な仕事に取り組めないはずだ。
大浦監督は、数年をかけて撮影し、山平さんも膨大な周辺取材を敢行した。

この夜に、こんな夜に、答えてみせようか。
全てを終わりにして。
いや、9月の舞台が終わるまではやっぱりだめか。
今、ここで答えてしまえば、9月の舞台を取りやめにせねばならない。

見沢さんの七回忌。
ぼくは、これまでに積み上げてきた6本の作品にのせた断章に
この七回忌の舞台で、一つの章立てをする。
見沢さんの7本目の舞台だ。

間に合ったな、見沢さん。
あんたには、わかってただろ。なぁ、見沢さん。
なんとか、間に合ったな。

口にしたことはやるんだよ! と偉そうに言ってきたが、
なぁ、見沢さん、七回忌だ。間に合った。

オルテガではないが、
何にせよ一つの論理の立ち向かう力は、
自分の生命をすり減らす度合いにかかっている。
そして、論理は一度動き始めたら機械のように正確に動き続けるものだ。
人間には太刀打ちできないほどの正確さをもってだ。

自分の未確定性の巨大さ。それをこんな夜に知る。
過ぎ去った出来事。過去形。昔のこと。人の死とぼくの生。

なんにせよ、観てわかるような演劇、そんなもの演劇じゃない。

ぼくの演劇を不愉快だと評した人があった。
それはそうだろう。不愉快と言うほど感情を揺さぶれるのが演劇だ。
一つ、ヒントを書いて終わろう。

他者とは、ぼくが殺したいと意欲しうる唯一の存在者なんだ。