辻慎之介の思想性における剣の論理

2011年7月11日 21:14:17

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辻慎之介が、また雑誌に出ている。
あちこちの雑誌に登場する彼だけれども、そこには取り上げられる理由と価値がある。
その理由と価値に、理由と価値を認めるか否かは、当然、その人次第。


『cycle HEADZ Vol.06』

内容は、ご覧いただいた方が、早い。稀有なコレクション。良質のコレクション。
そういえば、彼からは、たくさんの良品を、もらった。
今でも、良く相談をする。
これを着ようかと・・・、とか、これに合わせるのは・・・、とか、
もうわからん! 冬は何を着たらいいんだ? とか。
そう聞くたびに、アドバイスをしてくれる辻慎之介。

友人か? と聞かれると、実は、答えに困る。
ぼくの周りに、「この手の」友人は、いないんだ。「この手の」友人は、高校で卒業したんだ。
なんとも説明に困るが、ただ、なんか知らんが、話は、合う。「話が合う」のだから、仕方ない。

決して、辻慎之介は、ろくでなし、ではない。
社会性が偏っているとしても、判断が両極に振れることが多いとしても、
その態度にモラルが欠如しているとしても、彼は決して、ろくでなし、ではない。

彼は、自身を守るためなら、
目に見える文化のすべてが破壊されてもよい、という価値を諾とする。

フォルムがフォルムを呼び、
フォルムがたえず自由を喚起するのが、日本の文化の特色であるとするならば、
彼は、もっとも自由なフォルムとジャンルを価値とする。

この雑誌に見られるように、彼は、「モノ」へのこだわりがあるが、
実は、文化への固執は比較的稀薄で、消失を本質とする行動様式をとる。
オリジナル文化への固執は認められるが、それ以上の価値を持って、
コピーを自由に扱う。そうだ。彼にとって、オリジナルは、常にコピーとなる。

そしてまた、彼が受託する文化は、「見られる」ものではなく、
常に「見る」者として見返してくるという認識を上位とする。

そしてまた、彼にとって、「守る」とはつねに剣の原理だ。
守るという行為には、必ず危険がつきまとい、自己を守ることも自己放棄が必須となる。
それを知る者は、少ない。辻慎之介、本能の部分でそれを知っている。

彼は、常に、彼自身に付きまとうパラドクスを本能で回避する。

会えば、話す。話せば、話が合う。
まあ、それだけで充分だ。それ以上が欲しいとも思わないし、それ以下じゃ、つまらん。

友人かどうか、それは、何年も経った今もわからない。
話せば、楽しい。充分じゃないか。