高木ごっこ・・・131-32 『音楽と言葉と演劇と』
2006年12月12日 21:42:21
10年前から聴きつづけている一枚。
アマゾンで探すと、
現在もしっかりと売っていました。
高木ごっこというフィールドで
高木ごっこをプレイする。
そう、行き着く果ての「ごっこ」
その果てしないフィールドには、音楽が流れ。
その視界0の荒野には、言葉が道しるべ。
その黒以上の暗黒は、演劇という武器。
10年以上も聴きつづけてきた、小澤のマーラー。
この3番は、日本人にしか振れない、3番。
烈しく、しかし涙をこらえて、
内に秘めた熱情と情念は、透明で、
人間であるが故の絶望は、美しく、
小澤のマーラー3番。
そのレコードの中でも、このCDが傑作。
昨日より、ノイマンの振る5番を聴いていた、
しかし
じっくりと腰をすえ、
この高木ごっこで万年筆を握ると、
やはり、どこか、
違う。
ノイマンの指揮は、
烈しさが暴力を予兆させ、
熱情と情念を内に秘めることなく、発露させ、
絶望は、宗教へ転化される。
それは、民族の違いなのか。
音楽に国境がないと、簡単に語られる。
いや、
音楽にこそ、きっちりとした国境が在る。
超えることの出来ない、国境。
現実の世界のどこに国境がある。
芸術こそが国境をつくるのだ。
音楽と言葉と演劇と。
高木ごっこのプレイヤの一人、自分。
国境があるから、音楽を操り、音楽に操られる。
国境があるから、言葉を操り、言葉にもてあそばれる。
国境があるから、演劇を、やる。