なぜ本を読んでいるのか。なぜ演劇をしているのか。
2012年1月11日 21:22:36
そうか。あの時の思いが今も強烈に残っているのか。
はたと、今日、思い当たった。
小学6年の時にドストエフスキーの『罪と罰』を読んだ。
新潮文庫のあれだ。教科書よりも難しいとは思った。
そう思ったけれども、わくわくしながら読んだ。
理解したのか。もちろん、小学6年生のレベルでは理解しただろう。
その後、『罪と罰』は何度も読み返し、その都度、その年齢での理解をした。
そうだ。小学6年生の時の『罪と罰』体験。
読み終えた時に思ったんだ。言葉はなんて不自由なんだ、と。
それ以来、言葉とは何か、どういう働きをし、何を意味するのかを考えてきた。
当時、ぼくは12歳。「言葉はなんて不自由なんだ」とは、
言葉にできなかった。もっともやもやした感覚だ。
不快ではないが、決して愉快ではない感覚。痛みの伴わない痛点の触覚。
中学時代もその感覚は居座り続けた。
高校にあがり、埴谷雄高にはまった。『死霊』だ。
そして、「言葉はなんて不自由なんだ」というなんとなくもやもやした感じを理解した。
言葉を言葉で解釈することは絶対にできないのだ、と。
決定的な矛盾。それを理解した。
なんだ。絶対にできないのか。ぼくの思いは矛盾から始まったのか。
ばからしくなった。思春期の多感な年齢だ。17歳。
ぼくは、その時、言葉を棄てた。音楽に活路があると信じた。
バンドを組んだ。パンクだの、ロックだのを歌い、かきならし、叫んだ。
自分で曲を作っていた。作詞なんて簡単だった。
だって、言葉を正確に言葉で定義することはできなんだから、と。
音楽は言葉以上のエネルギーをぼくの全身で発現できるんだと信じた。
楽しかった。たくさんの曲を作った。それを喜んで聞いてくれる人もいた。
ライブにも人は集まった。カセットテープも売れに売れた。
そして、高校3年の時にあらためて読んだ『罪と罰』。
そこには、言葉の矛盾を突破できる予感を読んだ。
そうしたら、音楽がとたんにばからしくなった。
簡単に書ける歌詞、ギターとピアノでいつでも作れる曲。
繰り返すしかないバンドの練習。演者と聴衆という図式的な現実。
期待に応えたり、期待を裏切ったり、なんて簡単なんだと思った。
退屈だった。何もかもが退屈だった。
言葉の矛盾を突破できる予感を考えることだけが楽しかった。
けれども、どう考えてもいき詰まる。言葉は常に言葉であり、それを考えるのも、
言葉であり、言葉という言葉も言葉であり、そう書いているこれらも全て、
言葉であり、どんな図式を描いても、自家撞着二律背反。
でも、それができそうだと、予感した。
予感したまま、25年が過ぎた。そうか、あの日からだったのか。
小学6年生の『罪と罰』、『死霊』を経て、高校3年の『罪と罰』。
表題は、『なぜ本を読んでいるのか。なぜ演劇をしているのか。』
その答えが、今書いている、この記事、では決してない。
そんな単純なものじゃないが、扉は、ここだ。
コトバがやってきた。
遊ぶ? そんな顔をして、机の上でぼくを見上げている。
立ち上がれないほどの疲労と忙しさ。けれども退屈だ。
言葉のない世界を夢想したことから始まった観念。
コトバが見上げている。
遊ぼうよ。一緒に遊ぼうよ。頭を撫でて。そんな顔をしている。
頭をちょん、としてやる。嬉しいのか、気持ちいいのか、
目を閉じる。頭をちょん。キーボードをうつぼくの腕にのってきた。
頭をちょん。
少なくとも、何にも考えずに、頭をちょん、とする瞬間は、
退屈じゃないのかもしれない。なあ、コトバ。違うかな。
ただ、新しい場所が見えてるんだ。