60秒を数える仕事

2012年1月31日 21:45:58

秒針の進む音に合わせて、ただひたすらに数を数える仕事。
そんな仕事に従事した。数えさえすれば、その間、何をしていてもいい。
部屋にはぼく一人。かちかちと秒刻。それに合わせて、数を数える。

1、2、3、4・・・と。

60まで数えたら、また1からだ。
条件がある。時計を見るのは、数え始めの一回と仕事終わりの一回。
仕事について、2回だけ、時計を見ることができる。

始めの一回は、数え始めを、時計の1秒に合わせるからで、
終業時の一回は、数えた数と秒針が合っているか確認するからだ。
勤務時間は、6時間。

6時間、延々と数を数えた。
仕事終わりには、57、58、59、60、と、時計の秒針が
ぴったりてっぺんにいることを祈った。6時間、ひたすらに数えた。

なぜ、そんな仕事をしたのかは、わからない。
その仕事の目的もわからない。ただ、まじめに働いた。
そんな夢だった。毎日、夢ばかり見ている。
寝が浅いのか、それとも見た夢を覚えることに長けているだけか。

昔の夢ノートを見てみると、やっぱり面白い。
それにしても、だ。数を数えるだけの仕事、というのが成立するのか。
夢だからそれが成立するんだろうけど、それにしも、その夢の来し方。

昔から、夢ばかり見るので、フロイトにはまり込んだこともある。
が、この夢は一体どう解釈すればいいのか。
理屈をつけようとすれば、どうとでもつけられそうだが、

60秒を数え続けている間、ぼくは一人だった。
世界を失っていく感覚を感じていた。一秒を数えながら、全てを消去していく。
そんな感覚だ。

これまでの出来事を消去。
これからの出来事を消去。
永遠に来ることはない現在という一瞬だけを感覚する。

世界を消去。
友人を消去。
ただ一人だけの部屋。6時間の秒刻。

ふと思ったのは、子宮論だ。
どんな芸術でもよく使われる常套的な解釈だが、ふと、そう感じた。
ぼくがこの部屋に一人という認識は、決して一人ではできない。
必ず、何か、と、繋がっている。だから、一人と言う認識がなされる。

子宮論、か。使い古された論陣も、使い古されるだけの説得力があったんだろう。

60秒を数え続ける仕事。それが存在するか否かは別として、
そして、それが夢であったとしても、ぼくは、時代を今も考える。