そうか! と、はたと思い当たった。

2012年3月11日 00:23:12

ぼくは、死の可能性を先取りすると言う出来事を経験しているのだ。

その先取りは、もちろん積極的な事実的内容をもちはしない。

なるほど。

ぼくは、劇作家でもなければ、演出家でもなく、

演劇者でも表現者でも指導者でも煽動者でも、ないんだ。

夜だ。

夜である今は、貯えられるだろう。

すなわち、それはそれが、夜であるというように提示されるとおりのものとして、

ひとつの存在するものとして扱われるはずだ。

けれども、それはむしろ存在しないものとして現れる。

今そのものは、たしかに持続するだろうが、ただし、

夜ではないものとしてである。

同じように、その今は、今である昼にたいして、

昼ではないものとして、すなわち、

否定的なもの一般として持続するのだ。

その意味において、ぼくは、上記に挙げたそれらでは決してなく、

ぼくは、文法装置であるにすぎない。

『青春の墓標』という代名詞は、一体何を意味するか。

新しい記述法をもってしたその装置は、ぼくの言語活動の一つの科学だ。

多くのお客様にご来場いただいた。

夜、静かにこうべを垂れる。

ありがとうございました。

ありがとうございました。

その一言しかないというこの出来事一つとっても、ぼくの科学は証明される。

ありがとうございました。

ありがとうございました。

文法装置のぼくは、この先もその装置をもってして、

可能性としての死を先取りするだろう。

その先取りこそが、時間を雄弁に物語るはずだ。