読書代行、読書会、読書対談、読書劇
2012年6月9日 00:09:02
ぼつぼつと『読書代行』の依頼がくる。
読書代行。読書を代行します、ということだが、
本を読むだけでは、誰もギャラを払ってはくれない。
読んだことを、なにがしかの形にして、やっと請求ができる。
なにがしかの形は、ほとんどが、「書く」という形だ。
文章にすることでお金を頂くわけだ。
じゃあ、執筆代行、文書作成代行と何が違うのだろうか。
ということを、こないだ、話した。
実のところ、大きな違いはない。
代行者の意識ベースの違いだけだろう。
「書く」ことが主か。
「読む」ことが主か。
ぼくは、あくまでも『読書代行』
「読む」ことが主であり、出力としての「書く」は当然、従だ。
ただ、「読む」だけでは、お金にならない。
「書かねば」換金されない、というジレンマがあるのだが、
今のところ、あまり気にしていない。
ぼつぼつと依頼がくる。
読書代行、読書会、読書対談、読書劇。
何もかもに「読書」という冠をつけて、作品にし、発表し、活動し、換金している。
もっともっと「読書」をつけたい。
「読書映画」はどうか。
「読書旅行」も興味深い。
「読書学校」を作りたい。
「読書居酒屋」なんてのはどうか。
「読書列車」「読書病院」「読書賞」「読書服」「読書予報」
どれもこれも楽しそうだ。
今日も一冊読んだ。『人類の知的遺産』もこつこつ読んでいる。
鈴木さんとの読書対談でも話したが、
読書をあなたにそなたにあっちにこっちに薦めることはやめた。
一人で読めばいいんだ。
読むことの価値は、読む人しか知らない。
もちろん、読まないことの価値をぼくは読まないことはないのだから、知らない。
それでいい。
読む人と読まない人。その二種類。どっちがいい、というものでもない。
本なんか読まずに生きていければ、それにこしたことはない、と思う。
それでは生きていけないから、読んでるだけだ。
だから、読まない人を羨ましく、思う。
本を読むのが好きです。毎日読んでいます。たくさん読んでいます。
という話をするのも、もう飽きた。面倒だ。
そんな話をしたところで、
相手が読まない人なら、驚かれて終わり。何の発展性もない。
相手が読む人なら、別に驚かれもせず、社交辞令的に本を話題にするだけだ。
これまでの数年間、
あっちやこっちで本を読むことを薦めてきた。
読むようになった人もいる。
彼ら、彼女ら、は、このまま読み進めていけば、読書の残酷さを知るだろう。
読書の闇を知るだろう。
読書のあまりの劇的を知るだろう。
世の中の残酷を知りたければ、一人で読むがいい。
真っ暗より暗い闇を知りたければ、本を読むがいい。
芸術の高さを知りたければ、読み続けるがいい。
言葉は、世界の始まりからあなたに届けられる。
生きることの残酷が言葉の果てからやってくる。